「I'M WITH STUPID」−政治家の嘘を許さないイギリス国民

あぁ、僕は賛成だよ

あぁ、僕は(“愚か者”と)同じ意見だよ

「I'M WITH STUPID」PET SHOP BOYS

「このシングルは、どうしてその相手と付き合っているのか、自分以外、世界中の誰も理解することができないっていう状況について歌っているラヴ・ソングなんだ。これはまたブレア首相とブッシュ大統領との関係を、ブレア視点から描いている諷刺でもあるんだよね」(ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナント)

 ブレアが大量破壊兵器の嘘をついたことに対して、イギリス国民は最後まで許さなかった。ブレアは退陣を表明し、後継がブラウン財務相に決まらないこともあって、労働党の支持率は低迷したままだ。

 それに対して、小泉首相イラク戦争を支持してイラク自衛隊を送ったが、多くの日本国民は最後まで小泉首相を支持し続けた。

 政治家の約束、発言の重みというものに対して、日本とイギリスの国民では捉え方がまったく違う。そのことが、日本とイギリスは同じ議院内閣制をとっているにもかかわらず、政治のあり方が大きく違う一因でもある。

 二大政党制という外面を真似するだけでは、いつまでたってもイギリスの政治に追いつけない。それどころか、似たり寄ったりの二大政党で国民の選択肢が狭まり、与党についた方が数の力に任せて専制政治を行う。どれも日本人が政治というものを蔑視し、議論というものを軽視した結果だろう。当然の報いかもしれない。

 従来からの政治手法を続けて、地元への利益誘導を狙う地元有力者と地元財界、その一方でそんな政治に諦めをつけ、政治を卑しいものとして蔑視するサラリーマン層の庶民。先週行われた衆院補選や首長選の選挙結果からは、そんな状況がみえてくる。棄権する庶民が多いので、選挙結果と民意にずれがでてくるが、当選者は数の力に任せてしまう。そこで、庶民の政治不信はさらに深まる。

 政治不信の悪循環はいつ止まるのだろうか。それがいつになるにしろ、止めるのは庶民自身であるから、庶民自身が政治に関して賢くなるしかない。その際、イギリスが大いに参考になる。

 なぜ、ペット・ショップ・ボーイズが政治的な歌を歌っているのか。それは、日本と違って、イギリスの国民が政治的に成熟しているからだろう。

参考WEB

英与党労働党支持率、87年以来の低水準に落ち込む=世論調査(ヤフー・ロイター)

参考バックナンバー

『ブレア時代のイギリス』−イギリスの労働党と日本の民主党

日本人の戦争体験と奴隷根性−『民主と愛国』

 小熊英二著『<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性』は、分厚い本だったが、意外と読みやすい本だった。

 本の内容は一言ではとても言い表せないのだが、ポイントとしては次の二点ではないかと思った。戦前、戦中、戦後と日本人の奴隷根性は変わらなかったこと。同じ時代であっても、戦争体験の違いによって、その人のものの見方が他の人と大きく変わること。

 個人的な感想としては、戦争という内容なので仕方がない面もあるのだが、何か暗い情念に満ちていて、読んだ後、自分の目が血走っているのがわかった。さらに、戦争と政治に興味はあっても、戦後民主主義と戦後知識人にはそれほど興味がわかなかったので、どちらかというと、まだ全部読んでいないジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』の方が私の好みだった。そんな私の好みはともかくとして、『<民主>と<愛国>』が『敗北を抱きしめて』に並ぶ傑作であることは間違いないだろう。

 余談になるが、吉本隆明江藤淳が対照的な性格であることが印象的だった。たくましい(溺れても死なない!)吉本隆明に比べて、妻を追って自殺してしまう江藤淳大江健三郎の『万延元年のフットボール』について、大江に「いつまでもそんなことをしていると大人になれないぞ」というような批判をした江藤に対して、大江は「江藤さんは自分の内面を誠実に見ている人だと思うけれども、他人の内部についてはあまり誠実に見ないと思いますね」と江藤に指摘したという。私も、江藤淳は問題があったとしても、基本的には誠実でいい人だったのだろうと思った。

 ここからようやく今回の本論に入るのだが、分厚い本の中から、私が興味深いと思った、戦時中と60年安保の話を抜粋したい。

 安倍首相が祖父である岸元首相を良く思いたい気持ちはわかるが、60年安保の採決でヤクザを使って、与党にも知らせないで独断で強行採決してしまった岸の政治手法を知っていれば、岸に対して弁護の余地もないはずである。よく誤解されているのだが、60年安保では、安保改定の是非以前に、民主主義を否定するような岸の政治姿勢が問題とされたのである。

第1章 モラルの焦土

p.33-34

 元連合艦隊参謀長の日記によると、「大和」出撃のきっかけは、海軍の軍令部総長が、沖縄への特攻作戦計画を天皇に上奏したことだった。そのさい、「航空部隊丈の総攻撃なるや」と天皇の質問があり、総長がその場で「全兵力を使用致すと奉答」したのである。

 こうして、何らの準備もないまま急遽出動を命じられた艦隊は、一方的な空襲をうけて壊滅し、四千名ちかくが死んだ。しかし、そうした命令を下した命令官や参謀が、作戦失敗の責任を問われることはなかった。

(中略)

 特攻隊員の遺書をはじめ、兵士の手紙は軍に検閲されており、定型的な美辞麗句以外の内容は書けなかった。いわゆるエース・パイロットとして知られる坂井三郎は、戦後のインタビューでこう述べている。「当時の新聞でも、海軍部内広報でも、敷島隊(最初に認定された特攻隊)が壮烈なる体当たり攻撃をやった。これによって、海軍航空隊の士気が高揚したと書いてある。大嘘。士気は低下しました。」「全員死んでこいと言われて、士気が上がりますか。……間違いなく下がったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」

p.63

 丸山眞男は1951年の論文で、戦前の教育は個々人の責任意識に根ざした愛国心を育てたのではなく、「忠実だが卑屈な従僕」を大量生産したにすぎなかったと論じている。評論家の小田切秀雄は1946年に、「鬼畜米英」から「民主主義」礼賛に衣替えした者たちを評して、「このような手合には本来『転向』などというものはあり得ない」「迎合するに当ってご主人が変ったというに過ぎぬ」と形容した。

第12章 60年安保闘争

p.507

 1956年の教育委員会法案も、警官隊を導入して強行採決が行われたが、新安保条約の採決はそれ以上に暴力的なものであった。この5月19日に、岸を中心とした自民党主流派は、議員秘書のうち女性や老人を青年名義にとりかえ、総勢六百名ちかい「秘書団」を編成した。社会党側はこの日の午後、本会議場の外交官専用傍聴席に、自民党が雇った「ヤクザ風の男」たちが集結していることに気づいた。

p.509

 この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保条約採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。

(中略)

その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠席した。

 その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫河野一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった。」議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。

p.510

 元A級戦犯である岸が、アメリカの好意を買うために強行採決を行ったとみなされたことは、強い反発を買った。『東京新聞』のコラムは、岸を「天皇の名によって戦争という大バクチをやり、甘いしるを思いきりすった、このキツネ」と形容し、「アイクの訪日も、トラの威をかりようとするキツネの悪ヂエ計画だ」と評した。

p.511

 さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

 ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。それは、張作霖爆殺−満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぼらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(3)

 前回に続いて、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。

 引用した部分は、大衆政治の欠点、自由と専政、地方自治、多数の専政等について。

 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と言ったのは有名だが、トクヴィルを読んで、民主主義は大変な労力を必要とするものだと改めて思った。試行錯誤が大事とはいえ、戦争になってしまっては元も子もないので、民主主義といっても、外交はある程度貴族的な外務官僚に任せておくのも大事ではないかと思った。北朝鮮問題で国民感情が揺れていて、タカ派の安倍政権が発足した現在は、なおさらである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(下)(岩波文庫)から。

第5章 アメリカの民主政治について

p53-54

 民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。

 つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界を成しているのである。

(中略)

 民衆はいつも瞬時に判断しなければならず、もっとも人目を引く対象に惹かれざるを得ない。このため、あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。

p56

 民主政治の自然の本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。

p107-108

 すなわち、民主主義の政府が他の政府に比べて決定的に劣ると思われる点は、社会の対外的利害の処理である。民主政治にあっても、経験を積み、習俗が落ち着き、そして教育が広まれば、ほとんどどんな場合にも、良識と呼ばれる日常の実際的知識、生活上の小さな出来事を処理するあの知恵はいずれ形成されるものである。社会の平常の営みには良識で十分である。そして教育が行き渡った国民においては、民主的自由の内政への導入が産む利益は民主主義の政府の誤りがもたらすかもしれない害悪より大きい。だが国家間の関係はつねにそれでは済まない。

 外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要ではなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。

第6章 アメリカ社会が民主政治から引き出す真の利益は何か

p127-128 

 自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない。専政はこの反対である。往々にしてそれは多年の苦しみを癒すものとして登場する。権利を支え、抑圧されたものを助け、秩序の礎をおく。人民は専政が産み出す一時の繁栄に眠り込み、目を覚ましたときには悲惨な境涯におかれている。自由は逆に、激動の中に生まれるのを常とし、国を分裂させて容易に根づかない。時を経て古くなったとき初めて、その恵みに気づくのである。

p134

 ある種の国では、法律が参政権を与えても、住民が嫌々ながらにしかこれを受け取らない。公共の問題に関わるのは時間の無駄のように思って、狭い利己主義に閉じこもり、垣根をめぐらした四囲の濠割りから一歩も出ない。

 これに対して、アメリカ人が万一、自分自身の仕事以外に没頭するものがないという事態におかれたならば、その瞬間から彼の生命の半ばは奪われたも同然だろう。

p134-135

 疑いもなく、人民による公共の問題の処理はしばしばきわめて拙劣である。だが公共の問題に関わることで、人民の思考範囲は間違いなく拡がり、精神は確実に日常の経験の外に出る。庶民の一員にすぎなくとも社会の統治を任されれば、自分にある種の誇りをいだく。権力の地位にあるとなると、学識に秀でた人々が彼に助力を申し出る。彼の支持を得ようと接触してくる者がひっきりなしにあり、さまざまなやり方で人をだましにかかる連中を相手にしているうちに、利口になるのである。

第7章 合衆国における多数の全能とその帰結について

p150

 そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保証がほとんどない点である。

 合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利を持ったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。

p153

 それに国王のもつ力は物理的な力にすぎず、臣民の行為を規制しても、その意志に働きかけることはできない。ところが多数者には物理的かつ精神的な力があり、これが国民の行為と同様、意志にも働きかけ、行動を妨げるだけでなく、行動の意欲を奪ってしまうのである。

 総じてアメリカほど、精神の独立と真の討論の自由がない国を私は知らない。

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(2)

 前回に続いて、トクヴィルを手がかりに民主主義を考えてみたい。

 今回は、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。

 1835年に書かれたものであるが、現代に通用する部分が多く、驚かされると同時に、興味深かった。引用した部分は、政治と宗教の関係、プラグマティズム地方分権等についてである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(上)(岩波文庫)から。

第2章 出発点について、またそれがイギリス系アメリカ人の将来に対してもつ重要性について

p55

 移住者、というよりいみじくも自ら巡礼者(ピルグリム)と称するこの人々は、信奉する原理の厳しさによって清教徒の名を得たイングランドの教派に属していた。ピューリタニズムは単なる宗教上の教義にとどまらず、いくつかの点で、もっとも絶対的な民主的共和的思想と渾然一体となっていた。彼らにとってこのうえなく危険な敵が生じたのはこのためである。母国の政府に迫害され、信奉する原理の厳格な実践を周囲の社会習慣に妨げられて、清教徒は独自の生き方が許され、自由に神を礼拝することのできる未開、未踏の地を求めたのである。

p69-70

 この文明(筆者注:イギリス系アメリカ人の文明)はまったく異なる二つの要素の産物であり、この出発点は絶えず念頭におかねばならない。この二つの要素は他の場所ではしばしば相争ったのに対し、アメリカでは両者をいわば混ぜ合わせ、見事に結びつけることに成功したのである。すなわち、私が言うのは宗教の精神と自由の精神のことである。

 ニュー・イングランドの建国者は教派の熱心な信者であったが、また熱烈な改革者でもあった。いくつかの宗教的信念によってこのうえなく堅く結ばれながら、彼らはあらゆる政治的偏見から自由であった。

p71

 宗教は市民的自由に人間の能力の高貴な実践を見出す。政治の世界は造物主が知性の努力に委ねた場所とみなすのである。宗教は自らの領分では自由にして強大である。だからこそそれは、政治の援けを借りず宗教自身の力で人の心を支配すればするほど、その力が確立されることを知っているのである。

 自由は宗教のなかに、手を携えて戦い、勝利をともにした盟友を見出し、自らを育てた揺り籠、自らの権利の神聖なる源とこれをみなす。宗教こそ習俗の保護者であり、習俗が法律を裏付け、自由それ自身の永続を保証すると考えるのである。

第3章 イギリス系アメリカ人の社会状態

p77

 だが、平等に向けて最後の一歩を踏み出させたのは相続法である。

 政治を論ずる古今の著作家がこれまで、人間社会の動向を左右する要因として、相続法にもっと大きな力を認めていないのは私の驚きである。確かに、この法律は民事に属する事柄だが、これこそどんな政治制度にも先行する位置におかれねばならない。

p85

 アメリカ人に金持ちは少ない。だから、ほとんどあらゆるアメリカ人は仕事をもたねばならない。ところで、およそ仕事には修練が必要である。このためアメリカ人が知性を広く養うことができるのは人生の最初の数年にすぎない。15歳になれば、仕事に就く。かくして彼らの教育は、われわれのそれが始まるころには終わってしまう。それ以後も教育が続く場合には、金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐに役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。

第5章 連邦政府について語る前に個々の州の事情を研究する必要性

p108

 一般に人間の愛着は、力あるところにしか向かわないことをよく知らねばならない。愛国心は征服された国では永く続かない。ニュー・イングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、そこに生まれたからではなく、これを自らの属する自由で力ある団体とみなし、運営する労を払うに値すると考えるからである。

 ヨーロッパでは時として為政者自身が地域自治の精神の欠如を悔やむことがある。なぜなら、誰もが認めるように、自治の精神こそ秩序と公共の安寧の大きな要素だからである。だが、ヨーロッパの為政者はどうすれば自治の精神を生み出せるかを知らない。地域自治体に力をもたせ、独立を認めることによって、社会の力を分裂させ、国家を無政府状態にさらすのではないかと恐れるのである。ところが、地域自治体から力と独立を奪うならば、そこにはもはや被治者しか認められず、市民はなくなるだろう。

p126

 しかしアメリカの法体系はなによりも個人の利害に訴える。この点にこそ、合衆国の法制を研究する際に絶えず繰り返し見出される大原則がある。

 アメリカの立法者は人間の誠実性にはあまり信をおかない。だが人間は賢明であるとつねにみなす。だから法の執行にあたって、もっとも頼りにするのは人の個人的利害である。

 たしかに、行政の違法によって特定の個人が現実に明らかな損失をこうむったときには、個人の利害が公務員の訴追を促進することは分かる。

 けれども、社会全体に有用ではあっても、個人としては誰もその効用を現実に感じないような法の規定の場合には、進んで告発者となるものは一人もいないであろうと容易に予測される。そうすると、ある種の暗黙の合意によって法が執行することもあるかもしれない。

p153

 地方自治の制度はあらゆる国民の役に立つと思う。だが社会状態が民主的な国民ほど、この制度を本当に必要としている者はないように思われる。

 貴族政にあっては、自由のなかにもある種の秩序を保つことがいつでも期待できる。

 支配層にとって失う者が多いので、秩序は彼らにとって重大な関心の対象である。

 同様に、貴族政の中で人民はゆきすぎた専政から守られているといえる。というのも、専制君主に抵抗する備えのある組織された諸力がそこにはいつもあるからである。

 地方自治の制度を欠く民主制はこのような弊害に対していかなる防壁ももたない。

 小事において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えることができよう。

 一人一人が弱体で、しかもいかなる共通の利害による個人の結合もない国で、どうして暴政に抵抗できよう。

 放縦を嫌い、絶対権力を恐れる者は、地方の自由の着実な発展を同時に望むべきである。

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える

 前回の記事「安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ」は、題名がセンセーショナル過ぎたかもしれないが、記事の内容は冷静に書いたつもりである。もし、安倍政権が稲田議員の徴農政策を実行した場合、国民は支持しないだろうが、衆院の多数にまかせて、問答無用で推し進めてしまうかもしれないという内容を書いたつもりだった。

 今回は、更に冷静になって、民主主義について考えてみたい。アカデミックで抽象的な議論をしたところでどれほどの意味があるのかと思われる方もいるかもしれないが、安倍氏が民主主義といかに遠い位置にたっているかがよくわかるかと思う。

 また、徴農のような政策は、自由主義よりは社会主義、民主主義よりは全体主義に近い政策であることは前回も主張したことだが、トクヴィルを読むことにより、さらに理解が深められるのではないかと思う。

 19世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは、ジャクソン大統領時代のアメリカ合衆国を旅行して、『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』を著した。政治学の古典的名著である。

 今回は、トクヴィルの入門書から、民主主義について私なりに抜粋してみた。

 以下、引用は、河合秀和著『トックヴィルを読む』(岩波書店)から。

(注)引用した原文はボーモン編集の全集からで、引用中の(OC,1a,26)は、(第1巻第1部、ページ数)を指す。

序章 トックヴィルと民主主義

2 民主主義の多様性

p11

 20世紀の終りに、民主主義が最終的に実現されたと主張するのは、「歴史の終り」を主張するのと同じく愚かなことであり高慢なことです。今日、民主主義と呼ばれているものがすべてインチキだと主張するのも、同じように愚かで高慢なことです。民主主義の歴史は、民主主義という観念がその時々の歴史の現実に対応しながら不断に変化し、拡大してきた過程です。何か唯一つの最高の定義があるわけではありません。誰かがその言葉の解釈権、その言葉を使う権利を独占しているわけでもありません。誰かがこれこそ民主的と唱えれば、必ずまた誰かがそれにたいして非民主的だ、反民主的だという異議を申し立ててくるはずです。このように不断に異議の申し立てにたいして開かれていること、それこそが民主主義の一つの特徴であるからです。

第4章 政府の不在−『アメリカの民主主義』第一部−

5 多数者の専政

p155-157

 民主主義のもと、すべての権力は多数者の意志から発するとすれば、多数者にはすべてが許されるのか、少数者の自由を侵害することも許されるのか−これが彼のいう多数者の専政です。彼は、あれこれの国民、あれこれの地域の住民が多数決によって定めた一般的法(憲法)だけでなく、「全人類の多数」が定めた法がある。「それは正義と呼ばれる。したがって正義は、どの国民の権利にたいしても制限を課している」と言います。(OC,1a,26)しかしこのいささか抽象的な全人類の正義はいかにして守ることができるのでしょうか。他方で彼は、すべての主権的権力には−それを行使するのが一人か少数者か多数者かにかかわりなく−専政の危険が潜んでおり、その権力が多数者の道徳的権威に裏付けられた場合には危険は一層大きいと指摘しています。「国王の権威は物理的で、人々の行動を規制しても人々の意志を抑制することはない。しかし多数者は物理 的で同時に道徳的である権力を所有しており、それは人々の行動だけでなく意志にも働きかけ、一切の〔さまざまな原理の間の〕対決を抑圧するだけでなく、一切の論争を抑圧してしまう。私はアメリカほどに精神の独立と真の討論の自由が小さい国を知らない」(OC,1a,266)したがってアメリカにおける自由はいつも「不安定」であり、専政に転化する可能性を孕んでいました。

(中略)

それでも彼は、アメリカの観察の中から三つばかりの自由の防禦装置を発見しているようです。一つは、アメリカでは法廷に大きな権限を与えているために、法律家全体がいわば貴族的な地位を占めています。「法律家が彼らに自然に属している地位を反対勢力のない状態で占めている社会では、彼らの態度は優れて保守的になり、反民主的な性質を示すことになるだろうと確信している。」(OC,1a,276)

 第二に、ちょうど土地財産の細分化が個々のアメリカ人に自らの財産権を意識させ、他人の財産権を尊重させるようになるのと同じように、タウン・ミーティングや投票への参加は政治的権利の意識を強める筈です。「民主的政府は政治的権利という観念をもっともしがない市民にまで浸透させる。財産の分散が財産権という一般的理念をすべての人の手に届くようにするのと、まったく同じである。」(OC,1a,249)トックヴィルは、アメリカ滞在中に財産権そのものを正面から攻撃する議論に一度も出会ったことがないのに気づいていました。個々人が自らの権利を自覚するようになれば、特定の地域と時期の多数者の正義だけでなく、彼のいう「全人類の正義」への意識も芽生えてくる筈です。

 第三に、人々の権利意識が高まれば、人々の意見や利益が多様であることも意識されるようになるでしょう。だからこそ多数者の意見と利益が少数者の意見と利益を圧迫する危険も生じます。しかし社会の変化が激しく、その時々に形成される多数者が固定していないとすれば、多様な志向を統合する方向を見出せる筈です。

  

第5章 民主的人間−『アメリカの民主主義』第二部−

3 民主政下の人間のディレムマとその克服法

p175-176

 およそ社会が存続するためには、共通の意見や信念が行き渡っていること、つまりは他人の行動にたいする「合理的な期待」(例えば、ものを買った人は代金を支払うといった初歩的なものにはじまって)が必要です。トックヴィルは逆説的なことに−この逆説はまことにトックヴィルらしい見事な逆説です−、他人にたいする信頼を失った人々は信頼を「公衆」に、つまりは多数者に移すと言います。「こうして民主的な人々の間では、公衆が貴族政の諸国では考えられもしなかったような独特の権力を持つようになる。公衆は、他の人々に公衆の信念にたつよう説得したりはしない。ただ、すべての人々の考えという途方もなく強い圧力を各人の知性に加えることによって、人々にその信念を押しつけ、各人の考え方にそれを浸透させていく。」(OC,1b,18)

p178-179

 ここでトックヴィルが特に注目しているのは、自由な討論と自由な結社の役割です。第1部ではタウン・ミーティング、行政委員の選挙、陪審への参加等について論じられたものが、ここでは一般的な命題として提出されています。

「人々の状態が平等になり、そして人々が個々人としては強くなくなるとともに、それだけ容易に人々は多数者の流れに譲歩し、多数者が捨てた意見に自分一人で立つことがむつかしくなる。」しかし、民主政の社会では新聞があり、新聞の中でも新聞同士の間でも自由な討論があります。新聞は、「読者各人にたいしていわば他のすべての人の名において語りかけ、読者にたいして読者の個々人の弱さに比例して影響を及ぼす。」(OC,1b,120-21)人々は新聞を通じて、自分と同じ意見を持つ人々がいるのを発見し、自分自身の判断に自信をもつようになるでしょう。そして同志たちとともに結社を結び、さらに公衆に向かって働きかけていくことになるでしょう。

 こうして、「人が公共の場で共通の問題に対処しはじめると、彼は直ちに自分は初めに想像していた程には他の市民から独立している訳ではなく、他の人々の支持を得るには自分も他の人々に協力しなければならないことに気づく。」アメリカにはおよそ考え得るあらゆる目的について−商業的なものだけでなく真面目なものや不真面目なもの、道徳的なものや芸術的なものまで含めて−、多様で多数の自発的結社があることに、トックヴィルは気づいています。これらの結社は、人々の多様な要求を確認し、他の人々と協力して行動する道具になっています。またアメリカの政治制度は国民を代表する議会を作るだけで満足していません。「それは各地域に政治生活を与え、社会の他の成員とともに行動する機会、つまりは人々は互いに依存していることを感じさせる機会を無数に作り出している。」(OC,1b,110)

 こうして民主的社会が地方自治と自発的結社に参加していく気質を発展させていけば、個人は市民に、つまり公共の問題に参加していく人に変わっていきます。

第6章 平等と隷従−『旧体制と大革命』−

1 政治家トックヴィル

p190

 このような社会主義の登場を目のあたりにして、トックヴィル社会主義を何よりも先ず国家権力の強化、一層の集中化への動きと見て反対しました。彼は、社会主義者にたいして、民主主義の名において次のように挑戦します。

 好きな名を名乗りたまえ。しかし民主主義者という名を名乗ってはならない。私はそれに反対する。君はそれに値しないからである。・・・民主主義の名で語るものはすべて、金持ちか貧しいか、有力であるかしがない身分であるかにかかわりなく、すべての市民に与えられている最大限の自由を語るものでなければならない。・・・そうとすれば、民主主義は〔国家権力にたいする〕平等の隷従にはなり得ない。それは平等の自由である。・・・社会主義者が今日、再び確立しようと望んでいるすべての絆は、かつてフランス大革命によって断ち切られた絆ではないだろうか。彼らは国家を主人の地位、自らすべてを監督する地位におこうとしている。(OC,3C,193-95)

安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ

 以下の産経新聞の記事は、いろいろなブログで話題になっているので、当ブログで今さら取り上げるまでもないと思ったのだが、マスコミではきれいごとばかりで、この記事のような安倍氏の本質をほとんど話題にしていないことが気がかりに思えたので、今回取り上げることにした。 安倍政権でこうなる 首相主導で「教育再生」(産経新聞)
 ≪“徴農”でニート解決…稲田朋美衆院議員≫  藤原正彦お茶の水大教授は「真のエリートが1万人いれば日本は救われる」と主張している。  真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。  そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない。  それから、若者に農業に就かせる「徴農」を実施すれば、ニート問題は解決する。そういった思い切った施策を盛り込むべきだ。
 安倍政権の教育再生政策とは、若者に奉仕活動を義務づけるだけでなく、徴兵ならぬ徴農を実施することになるようだ。  中国の毛沢東が実施した文化大革命下放や、カンボジアポル・ポト率いるクメール・ルージュが実施した原始共産主義を連想させるプランが自民党からでてきたということは、自民党自由主義を放棄し始めたことを意味するだろう。 加藤元幹事長実家放火 党内忘却モード(東京新聞)  8月15日の加藤氏実家放火事件では、小泉首相が8月28日まで沈黙するなど、政府・自民党内に言論弾圧テロを黙認するような空気があった。これは、自民党が民主主義を放棄し始めたことを意味するのではないか。  これまで、自民党は右から左まで様々な政治家が集まっていたが、自由民主主義というよりどころがあったといえる。しかし、小泉首相の登場により、議院内閣制を強力に運用することにより、自民党が上からのトップダウンの党になってしまった。その後継として極右的な安倍氏が首相になることにより、トップダウン自由民主主義が放棄される可能性が高い。  私は、日本の国民が徴農のような全体主義的な政策を支持するとは思えないのだが、自民党衆院で300議席以上を占めている今、残念ながら、安倍氏がこのような政策を強行できる余地があると思う。  余談だが、加藤氏は自民党員という立場を守るためなのか、かつてのYKKという盟友への義理なのか、放火事件での小泉首相の対応について、小泉首相をずいぶんかばっていた。私は、ミュンヘン会談でのネヴィル・チェンバレン首相をみる思いがして、加藤氏の優しさはそのうち命取りになるのではないかと思った。  来年の参院選は、これまでの自由民主主義を継続するのか、それとも自由民主主義を放棄して極右全体主義へ転換するのか、を決める重大な選挙になるだろう。 参考URL 『安倍氏ブレーン』どんな人? 靖国、拉致、教育問題…(東京新聞) 「教育改革国民会議」(第一分科会第4回配布資料「一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)」 文化大革命(wikipedia) クメール・ルージュ(wikipedia)  参考BLOG 日本国憲法第13条、第14条、第18条、第19条あたりに抵触するような‐2006年自民党総裁選・その5(bewaad institute@kasumigaseki )

「ランド・オブ・プレンティ」−滑稽なまでに哀れなアメリカ

 ドイツ人の映画監督であるヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」を見た。本作もヴェンダースが得意とするロードムービーだが、非常に政治的な映画だったので、興味深かった。

 9・11以後、アメリカ批判の映画としては、マイケル・ムーアの「華氏911」がとても話題になった。それに対して、本作は有名な監督の作品にもかかわらず、ほとんど話題にならなかった。

 それもそのはずで、ヴェンダースの映画全般にもいえることだが、この映画が明快さに欠けるからだろう。私は、ブッシュ政権とそれを支持するアメリカ国民に対して、強烈に批判した映画とみたが、見る人によっては、単に対テロ戦争を行うアメリカ人に対して同情した映画と捉えるかもしれず、見る人によって、受け取り方がかなり変わりそうだ。

 9・11以後、盛んにいわれていることだが、地方に住んでいるアメリカ人は無知で保守的な考えの人が多い。主人公はその典型のような人物で、さらにベトナム戦争の帰還兵である。

 この主人公に会いに、外国から姪がやってくる。宣教師の親をもち、アフリカやパレスチナで暮らしていた。パソコンを使いこなし、国際情勢にも明るい彼女は、主人公の伯父と対照的である。

 偏執狂的にテロリストを追い続ける伯父と、それを暖かく見守りながらも、伯父の目を覚ませようとする姪。

 この伯父と姪の関係は水と油のような関係なので、普通は衝突してしまう。そうならないところが、この映画の明快さに欠けるところであり、面白いところでもある。

 姪の伯父に対する暖かい眼差しが印象的で、ヴェンダースの哀れなアメリカ人に対する暖かい眼差しを表しているように思えた。

 この映画では、マスコミの好戦的な報道がよく流れた。さりげなく流れるので、うっかりしていると気にとめないかもしれない。

 アメリカで蔓延している、偏向報道と情報不足という問題である。ニューヨーク・タイムズを読んでいるような人は一握りで、FOXニュースをみるだけのような人が多数をしめる実態がある。

 7月、イスラエルレバノンに攻撃を開始してから、戦争が続いている。CNNによると、アメリカ人は攻め込まれているレバノンよりも攻め込んだイスラエルに同情する人がほとんどという調査結果が出た。この調査結果は、アメリカにおける、偏向報道と情報不足の典型的な例といえよう。

 この問題はアメリカで顕著にみられるといっても、アメリカだけの問題ではない。日本でもNHKニュースは、もはや中立には程遠く、民放以上にバイアスがかかっているし、今に始まったことではないが、読売新聞は保守的といえばバランスがよさそうだが、親米、親イスラエル、反中国の記事ばかりで、相当に偏向している。残念ながら、バランスは相当悪いし、案外情報量も少ない。

 インターネット時代になって、情報は得ようとすればいくらでも得られるが、良質の情報を得るということは案外難しい。

 アメリカで起きていることは対岸の火事ではない。このようなアメリカを模範にした改革を行うことは、格差社会を生みだすことになり、一握りの人のためにしかならない。

 日本は、この映画の姪の役割を演じるべきであって、ただ命令を受けるだけの、伯父(アメリカ)の部下になるべきではない。

ランド・オブ・プレンティ(公式サイト)

ヴィム・ヴェンダースインタビュー(pause)

米国民68%がイスラエルに同情、ヒズボラ6%(CNN)

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