『人道的介入』再読
ウクライナ戦争に関連してコソボ紛争が各方面で取り上げられていたのを機に、2001年発行の最上敏樹著『人道的介入』を再読すると、コソボ紛争は止むを得ない人道的介入だったと内容を誤解して記憶していたのに気がついた。なぜそうなったのか。個別的な例としてコソボ紛争は人道的介入に当たらないと書いた後に、観念的なあるべき人道的介入をやむを得ない例などを挙げながら、最後に書いてあるためだった。アカデミックな本なので、誤解して記憶する方が悪いのだが、新書という一般人を対象にした本としてはわかりにくい。それ以上に問題だと思ったのは、アカデミックであるだけに重要なことをあえて強調していない点だ。プーチンのロシアがコソボ紛争を真似してしまった今となっては、新書である以上、以下のような点をもっと強調するべきだったのではと思えてくる。
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しかし、これまでの人道的介入の事例において、多くの場合そうであったように、この作戦もまた、純粋に人道的な動機だけでなされていたとは言いにくい。ラチャク事件の第一報がOSCEの調査団によってもたらされたとき、オルブライト米国務長官は「コソヴォに春が早く来た」と叫んだという。コソヴォのアルバニア人を助けるための軍事行動を起こす口実ができたという意味であったのだろうが、「虐殺」事件を歓迎するかのような反応と「人道的な」政策執行とがどう結びつくのか、いささか違和感も禁じえない。だが、人道的目的とは別の目的があったと考えれば、話のつじつまは合う。
興味深かったのは、1978年からのヴェトナムによるカンボジア(ポルポト政権)への介入では、ヴェトナムが人道的介入を正当化根拠として打ち出していないことだ。人道的介入はヒトラーのズデーテン併合など、胡散臭いものという共通認識がまだ当時はあったのだろうか。
時代に逆行する大阪都構想
1 基礎自治権の放棄
特別区は市と違い、不完全な基礎自治体であるといえる(地方自治法上の特別地方公共団体)。
特別区になれば、市に二度と戻れず(東京市は昭和18年に廃止されてから75年以上たってもいまだに復活していない)、東京特別区(東京23区)で行われているような自治権拡充運動が永久に続くことになる。
東京でも区は都会的で格好良く、市よりも格上と勘違いしている人がいるが、東京特別区は都の内部団体だった歴史があり、不完全で常に不安定な状態を強いられていた。
現在の東京特別区が市とほぼ同等であるため、特別区理想論=大阪都構想が出てきたのかもしれないが、元々、現在の特別区が市並みになったのは東京特別区による自治権拡充運動の成果である。区長を選挙で選ぶことさえできなかったことなど、東京特別区には多くの苦難の歴史があった。大阪都にするということは大阪市民が自治権拡充運動という苦難の歴史に自ら飛び込むことを意味する。
2 二重行政解消のために市を廃止したのは戦争中の東京のみ
先進国で市を州から独立させている都市はある(アメリカのワシントンなど)が、市を廃止したのは戦争中の東京のみ。
基礎自治体を廃止するのは戦時下の中央集権国家のやることで、実際、東京の歴史が証明している。
デメリットがあるので賛成しないが、どうしてもどちらかの自治体を廃止したいのなら、ワシントンのように市が府から独立すべきだろう。
3 市を廃止して喜ぶ市民?
特別区の数少ないメリットとして、市よりも住民との距離が近くなることがあるが、これは市を廃止してしまうのではなく、地方自治法上の総合区制度を利用するなど、現在の行政区の権限を拡充して対応すべきだ。
横浜市を廃止して神奈川都にすべきと主張したらほとんどの横浜市民から怒られそうだが、同じことを大阪市民の約半数が賛成しているのが不思議でならない。
府の名前がたまたま大阪だから賛成しているだけではないだろうか?
戦時体制としての東京都制定=東京市廃止
第81帝国議会 《昭和18年1月29日衆議院本会議内相説明》
『東京都制制定ノ趣旨ト致シマス所ハ、之ヲ要約致シマスルト凡ソ次ノ三点ニ帰着スルト思ヒマス、其ノ一ハ帝都タル東京ニ真ニ其ノ国家的性格ニ適応致シマシタ確固タル体制ヲ確立スルコトデアリマス、其ノ二ハ帝都ニ於ケル従来ノ府市併存ノ弊ヲ是正解消シ、帝都一般行政ノ 一元的ニシテ強力ナル遂行ヲ期スルコトデアリマス、其ノ三ハ帝都行政ノ運営ニ付キ根本的刷新ト高度ノ能率化トヲ図ルコトデアリマス、惟フニ我ガ東京ハ内地人口ノ約一割ヲ擁スル国内無類ノ巨大都市デアリマスルノミナラズ、実ニ我国ノ帝都トシテ比類ナキ国家的意義ト重要性トヲ持ツテ居リマス、更ニ今日ニ於キマシテハ、大東亜建設ノ本拠トシテ全世界ニ其ノ大イナル地位ヲ示スニ至ツテ居ルノデアリマス、随テ之ヲ単ナル一地方都市乃至ハ一地方トシテ経営致シマスルコトハ、根本的ニ其ノ性格ニ適応セヌモノガアルト存ズルノデアリマス、宜シク其ノ国家的意義ト性格トニ適応スル確固タル体制ヲ確立スベキデアリ、是コソ大東亜建設ノ基礎ヲ固ウスル所以ノ根本策デアルト考ヘルノデアリマス、』
危機の時代が始まった
太平洋戦争後、日本国憲法下で平和主義を国是としていた日本が、7月10日の参議院選挙で改憲勢力が3分の2を突破し、憲法改正国民投票が行われることが必至の情勢となった。公明党、大阪維新の党は、最初のうち抵抗しても、自民党が圧倒的な力を持っているため、最終的には擦り寄る形で憲法改正国民投票に賛成すると思われる。国民投票となれば、平和主義を続けるか、放棄するか、体制の選択を迫られる。軍国主義、平和主義に続き、7月11日以降、日本は「危機の時代」に突入したと言える。平和主義は風前の灯火となり、安保法という名の戦争法で平和主義は既に骨抜きになっている。国民の大半が無関心だから、選挙で改憲が争点になっていなかったからというのは理由にならない。政治は数が命、数さえ取れば権力を生むのである。
国民投票では、平和主義を守るために改憲に反対しよう。例え、改憲になっても、諦めずに平和主義を訴え続けよう。
原発は安全ですなんて、さっぱりわかんねえ
寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い
それでもTVは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ 根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース
「サマータイム・ブルース」RCサクセション(アルバム「Covers」より)
菅首相は東海地震の危険性がある浜岡原発を停止したが、浜岡原発以外の原発は引き続き推進していくと表明し、6月18日に海江田経産相は原発の安全宣言をして、現在停止中の原発の再稼働を要請した。
原発は安全ですと言っていたにもかかわらず、福島第一原発が爆発してしまった。福島第一原発が爆発してしまえば、想定外の地震と津波だったと言う。福島第一原発の事故が継続中にもかかわらず、わずか数ヶ月の対策でほかの原発は安全ですと言う。
さっぱりわかんねえ、としか言いようがない。
違和感があるのは、民主党政権の目線が国民に向いているのではなく、財界や政権維持に向いていることだ。
財界については、急いで原発の安全宣言をしたことは、大企業の経営に支障がないようにするため、財界の意向を受けて、民主党政権が配慮した結果だろう。
また、節電のしわよせは、平社員、子供、老人、障害者といった弱者にきているが、企業の経営にはほとんど支障がないと思われる。
例えば、企業の出勤日を土日にずらすことによって、社員の家庭に悪影響を及ぼしているし、会社、交通機関、公共機関のエアコンを停止することにより、老人・障害者等に悪影響を及ぼしているが、企業の経営にはほとんど支障がない。
政権維持については、パニック防止のため、SPEEDIの情報を隠蔽したことは福島県の飯館村民を被爆させてしまったが、原発事故を小さく見せることによって、原発事故初期において国民の不満を小さくすることができた。
さらに、20ミリシーベルト問題についていえば、細野首相補佐官は汚れ仕事をすることに誇りを持っているようだが、その汚れ仕事が国民、特に福島の子供の健康を犠牲にしていることに対して、必要悪だと考えているとしたら、即刻議員辞職すべきだ。
国会議員は自分の意見を主張することが仕事であって、サラリーマンのように、自分を押し殺して、上司(菅首相)や所属している組織(民主党)に服従することではない。国会議員の仕事がサラリーマンの仕事と同じだと勘違いしているとしたら、とんでもないことだ。
福島の子供の被曝は必要悪でも何でもなく、単なるモラルハザードだ。対象地の人口が多いから対策がうてないということだとしても、福島県民は自己責任を迫られ、対策は地元自治体に押し付けられている。政府の無策ぶりは、まるでミッドウェー海戦以降の大日本帝国政府の対応をみているようだ。
今後、民主党が自民党と同じ原発推進政策を主張するならば、 民主党も自民党も国民の不信を買い、危険もしくは無責任な第三勢力が国会に進出するなどして、政党政治が危機に陥りかねない。
民主党の生き残る道、言い換えれば政党政治を存続させる道は、原発推進政策と原発事故対応の誤りに対して反省をしたうえで、脱原発宣言をして、福島第一原発が落ち着いた後に、解散・総選挙を行うことだろう。
静岡茶を飲みてえ
放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ
何やってんだー税金かえせ
目を覚ましな
巧みな言葉で一般庶民を
だまそうとしても
ほんの少しバレてるその黒い腹
「ラヴ・ミー・テンダー 」RCサクセション(アルバム「Covers」より)
チェルノブイリ原発事故を受けて、忌野清志郎らのRCサクセションが1988年に発表したアルバム「Covers」は、現在を予想していたようなリアルさで聴くものに迫ってくる。
遂に、東北、関東以外の静岡まで、放射能被害で農産物が出荷停止になってしまった。
原発を推進し、老朽化した福島第一原発を稼働し続け、それに対する反省がみられない自民党に対して、なぜ国民は怒りの声をあげないのだろうか?
原発を推進した責任は国民全体にあるのだから、自民党だけの責任ではないという国民総ざんげ論は、アジア太平洋戦争の責任は国民全体にあるのだから、軍部だけの責任ではないというロジックと同じで、非常に危険だ。アジア太平洋戦争と同じように、原発推進政策も責任の所在をはっきりさせたうえで、失敗の原因を追求する必要がある。さもないと、歴史は繰り返すということになる。
これから日本に必要なのはパッションだろう。日本人も、イタリア人のように感情を表に出して、シンプルに原発から脱却すべきだ。
それでも原発は必要という議論は、3月11日以降、小賢しい机上の空論に思えてならない。
なぜなら、電力が足りなければ、天然ガス等を利用する火力発電所を作ればいいだけであるし、日本で原発が爆発してしまった以上、原発の安全性はCO2削減に優先して当然だからである。
人災を止めろ
年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。年間10mSvの数値も、ウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でも中々見ることのできない数値で(せいぜい年間数mSvです)、この数値の使用は慎重であるべきであります。私は原発事故に対して挙国一致で対応する必要があると思い、政府への批判は事故終息後にすべきだと思っていたが、子供を見殺しにする対応を見て、菅内閣は即刻総辞職すべきだと考えを変えざるを得なくなった。 福島県浜通りだけでなく、中通りで積算被爆量が高い地点が多い。このことに対する対応に政府は苦慮しているのだろう。しかし、大人に対して、避難しなかった場合や、放射線に対する用心を怠った場合に、自己責任を迫ることができるかもしれないとしても、子供に自己責任を迫ることは決してできない。 原発事故は1ヶ月を過ぎて、完全に人災の様相を呈してきた。 内閣参与が痛切批判し辞任:児童の放射線許容量(Blog vs. Media 時評) 【遅いPC向け】福島県内 4,400 箇所の放射線量を可視化して、ついでに年間積算被曝量も推定してみた(宇宙線実験の覚え書き)