トクヴィルを手がかりに民主主義を考える

 前回の記事「安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ」は、題名がセンセーショナル過ぎたかもしれないが、記事の内容は冷静に書いたつもりである。もし、安倍政権が稲田議員の徴農政策を実行した場合、国民は支持しないだろうが、衆院の多数にまかせて、問答無用で推し進めてしまうかもしれないという内容を書いたつもりだった。

 今回は、更に冷静になって、民主主義について考えてみたい。アカデミックで抽象的な議論をしたところでどれほどの意味があるのかと思われる方もいるかもしれないが、安倍氏が民主主義といかに遠い位置にたっているかがよくわかるかと思う。

 また、徴農のような政策は、自由主義よりは社会主義、民主主義よりは全体主義に近い政策であることは前回も主張したことだが、トクヴィルを読むことにより、さらに理解が深められるのではないかと思う。

 19世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは、ジャクソン大統領時代のアメリカ合衆国を旅行して、『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』を著した。政治学の古典的名著である。

 今回は、トクヴィルの入門書から、民主主義について私なりに抜粋してみた。

 以下、引用は、河合秀和著『トックヴィルを読む』(岩波書店)から。

(注)引用した原文はボーモン編集の全集からで、引用中の(OC,1a,26)は、(第1巻第1部、ページ数)を指す。

序章 トックヴィルと民主主義

2 民主主義の多様性

p11

 20世紀の終りに、民主主義が最終的に実現されたと主張するのは、「歴史の終り」を主張するのと同じく愚かなことであり高慢なことです。今日、民主主義と呼ばれているものがすべてインチキだと主張するのも、同じように愚かで高慢なことです。民主主義の歴史は、民主主義という観念がその時々の歴史の現実に対応しながら不断に変化し、拡大してきた過程です。何か唯一つの最高の定義があるわけではありません。誰かがその言葉の解釈権、その言葉を使う権利を独占しているわけでもありません。誰かがこれこそ民主的と唱えれば、必ずまた誰かがそれにたいして非民主的だ、反民主的だという異議を申し立ててくるはずです。このように不断に異議の申し立てにたいして開かれていること、それこそが民主主義の一つの特徴であるからです。

第4章 政府の不在−『アメリカの民主主義』第一部−

5 多数者の専政

p155-157

 民主主義のもと、すべての権力は多数者の意志から発するとすれば、多数者にはすべてが許されるのか、少数者の自由を侵害することも許されるのか−これが彼のいう多数者の専政です。彼は、あれこれの国民、あれこれの地域の住民が多数決によって定めた一般的法(憲法)だけでなく、「全人類の多数」が定めた法がある。「それは正義と呼ばれる。したがって正義は、どの国民の権利にたいしても制限を課している」と言います。(OC,1a,26)しかしこのいささか抽象的な全人類の正義はいかにして守ることができるのでしょうか。他方で彼は、すべての主権的権力には−それを行使するのが一人か少数者か多数者かにかかわりなく−専政の危険が潜んでおり、その権力が多数者の道徳的権威に裏付けられた場合には危険は一層大きいと指摘しています。「国王の権威は物理的で、人々の行動を規制しても人々の意志を抑制することはない。しかし多数者は物理 的で同時に道徳的である権力を所有しており、それは人々の行動だけでなく意志にも働きかけ、一切の〔さまざまな原理の間の〕対決を抑圧するだけでなく、一切の論争を抑圧してしまう。私はアメリカほどに精神の独立と真の討論の自由が小さい国を知らない」(OC,1a,266)したがってアメリカにおける自由はいつも「不安定」であり、専政に転化する可能性を孕んでいました。

(中略)

それでも彼は、アメリカの観察の中から三つばかりの自由の防禦装置を発見しているようです。一つは、アメリカでは法廷に大きな権限を与えているために、法律家全体がいわば貴族的な地位を占めています。「法律家が彼らに自然に属している地位を反対勢力のない状態で占めている社会では、彼らの態度は優れて保守的になり、反民主的な性質を示すことになるだろうと確信している。」(OC,1a,276)

 第二に、ちょうど土地財産の細分化が個々のアメリカ人に自らの財産権を意識させ、他人の財産権を尊重させるようになるのと同じように、タウン・ミーティングや投票への参加は政治的権利の意識を強める筈です。「民主的政府は政治的権利という観念をもっともしがない市民にまで浸透させる。財産の分散が財産権という一般的理念をすべての人の手に届くようにするのと、まったく同じである。」(OC,1a,249)トックヴィルは、アメリカ滞在中に財産権そのものを正面から攻撃する議論に一度も出会ったことがないのに気づいていました。個々人が自らの権利を自覚するようになれば、特定の地域と時期の多数者の正義だけでなく、彼のいう「全人類の正義」への意識も芽生えてくる筈です。

 第三に、人々の権利意識が高まれば、人々の意見や利益が多様であることも意識されるようになるでしょう。だからこそ多数者の意見と利益が少数者の意見と利益を圧迫する危険も生じます。しかし社会の変化が激しく、その時々に形成される多数者が固定していないとすれば、多様な志向を統合する方向を見出せる筈です。

  

第5章 民主的人間−『アメリカの民主主義』第二部−

3 民主政下の人間のディレムマとその克服法

p175-176

 およそ社会が存続するためには、共通の意見や信念が行き渡っていること、つまりは他人の行動にたいする「合理的な期待」(例えば、ものを買った人は代金を支払うといった初歩的なものにはじまって)が必要です。トックヴィルは逆説的なことに−この逆説はまことにトックヴィルらしい見事な逆説です−、他人にたいする信頼を失った人々は信頼を「公衆」に、つまりは多数者に移すと言います。「こうして民主的な人々の間では、公衆が貴族政の諸国では考えられもしなかったような独特の権力を持つようになる。公衆は、他の人々に公衆の信念にたつよう説得したりはしない。ただ、すべての人々の考えという途方もなく強い圧力を各人の知性に加えることによって、人々にその信念を押しつけ、各人の考え方にそれを浸透させていく。」(OC,1b,18)

p178-179

 ここでトックヴィルが特に注目しているのは、自由な討論と自由な結社の役割です。第1部ではタウン・ミーティング、行政委員の選挙、陪審への参加等について論じられたものが、ここでは一般的な命題として提出されています。

「人々の状態が平等になり、そして人々が個々人としては強くなくなるとともに、それだけ容易に人々は多数者の流れに譲歩し、多数者が捨てた意見に自分一人で立つことがむつかしくなる。」しかし、民主政の社会では新聞があり、新聞の中でも新聞同士の間でも自由な討論があります。新聞は、「読者各人にたいしていわば他のすべての人の名において語りかけ、読者にたいして読者の個々人の弱さに比例して影響を及ぼす。」(OC,1b,120-21)人々は新聞を通じて、自分と同じ意見を持つ人々がいるのを発見し、自分自身の判断に自信をもつようになるでしょう。そして同志たちとともに結社を結び、さらに公衆に向かって働きかけていくことになるでしょう。

 こうして、「人が公共の場で共通の問題に対処しはじめると、彼は直ちに自分は初めに想像していた程には他の市民から独立している訳ではなく、他の人々の支持を得るには自分も他の人々に協力しなければならないことに気づく。」アメリカにはおよそ考え得るあらゆる目的について−商業的なものだけでなく真面目なものや不真面目なもの、道徳的なものや芸術的なものまで含めて−、多様で多数の自発的結社があることに、トックヴィルは気づいています。これらの結社は、人々の多様な要求を確認し、他の人々と協力して行動する道具になっています。またアメリカの政治制度は国民を代表する議会を作るだけで満足していません。「それは各地域に政治生活を与え、社会の他の成員とともに行動する機会、つまりは人々は互いに依存していることを感じさせる機会を無数に作り出している。」(OC,1b,110)

 こうして民主的社会が地方自治と自発的結社に参加していく気質を発展させていけば、個人は市民に、つまり公共の問題に参加していく人に変わっていきます。

第6章 平等と隷従−『旧体制と大革命』−

1 政治家トックヴィル

p190

 このような社会主義の登場を目のあたりにして、トックヴィル社会主義を何よりも先ず国家権力の強化、一層の集中化への動きと見て反対しました。彼は、社会主義者にたいして、民主主義の名において次のように挑戦します。

 好きな名を名乗りたまえ。しかし民主主義者という名を名乗ってはならない。私はそれに反対する。君はそれに値しないからである。・・・民主主義の名で語るものはすべて、金持ちか貧しいか、有力であるかしがない身分であるかにかかわりなく、すべての市民に与えられている最大限の自由を語るものでなければならない。・・・そうとすれば、民主主義は〔国家権力にたいする〕平等の隷従にはなり得ない。それは平等の自由である。・・・社会主義者が今日、再び確立しようと望んでいるすべての絆は、かつてフランス大革命によって断ち切られた絆ではないだろうか。彼らは国家を主人の地位、自らすべてを監督する地位におこうとしている。(OC,3C,193-95)