トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(2)

 前回に続いて、トクヴィルを手がかりに民主主義を考えてみたい。

 今回は、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。

 1835年に書かれたものであるが、現代に通用する部分が多く、驚かされると同時に、興味深かった。引用した部分は、政治と宗教の関係、プラグマティズム地方分権等についてである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(上)(岩波文庫)から。

第2章 出発点について、またそれがイギリス系アメリカ人の将来に対してもつ重要性について

p55

 移住者、というよりいみじくも自ら巡礼者(ピルグリム)と称するこの人々は、信奉する原理の厳しさによって清教徒の名を得たイングランドの教派に属していた。ピューリタニズムは単なる宗教上の教義にとどまらず、いくつかの点で、もっとも絶対的な民主的共和的思想と渾然一体となっていた。彼らにとってこのうえなく危険な敵が生じたのはこのためである。母国の政府に迫害され、信奉する原理の厳格な実践を周囲の社会習慣に妨げられて、清教徒は独自の生き方が許され、自由に神を礼拝することのできる未開、未踏の地を求めたのである。

p69-70

 この文明(筆者注:イギリス系アメリカ人の文明)はまったく異なる二つの要素の産物であり、この出発点は絶えず念頭におかねばならない。この二つの要素は他の場所ではしばしば相争ったのに対し、アメリカでは両者をいわば混ぜ合わせ、見事に結びつけることに成功したのである。すなわち、私が言うのは宗教の精神と自由の精神のことである。

 ニュー・イングランドの建国者は教派の熱心な信者であったが、また熱烈な改革者でもあった。いくつかの宗教的信念によってこのうえなく堅く結ばれながら、彼らはあらゆる政治的偏見から自由であった。

p71

 宗教は市民的自由に人間の能力の高貴な実践を見出す。政治の世界は造物主が知性の努力に委ねた場所とみなすのである。宗教は自らの領分では自由にして強大である。だからこそそれは、政治の援けを借りず宗教自身の力で人の心を支配すればするほど、その力が確立されることを知っているのである。

 自由は宗教のなかに、手を携えて戦い、勝利をともにした盟友を見出し、自らを育てた揺り籠、自らの権利の神聖なる源とこれをみなす。宗教こそ習俗の保護者であり、習俗が法律を裏付け、自由それ自身の永続を保証すると考えるのである。

第3章 イギリス系アメリカ人の社会状態

p77

 だが、平等に向けて最後の一歩を踏み出させたのは相続法である。

 政治を論ずる古今の著作家がこれまで、人間社会の動向を左右する要因として、相続法にもっと大きな力を認めていないのは私の驚きである。確かに、この法律は民事に属する事柄だが、これこそどんな政治制度にも先行する位置におかれねばならない。

p85

 アメリカ人に金持ちは少ない。だから、ほとんどあらゆるアメリカ人は仕事をもたねばならない。ところで、およそ仕事には修練が必要である。このためアメリカ人が知性を広く養うことができるのは人生の最初の数年にすぎない。15歳になれば、仕事に就く。かくして彼らの教育は、われわれのそれが始まるころには終わってしまう。それ以後も教育が続く場合には、金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐに役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。

第5章 連邦政府について語る前に個々の州の事情を研究する必要性

p108

 一般に人間の愛着は、力あるところにしか向かわないことをよく知らねばならない。愛国心は征服された国では永く続かない。ニュー・イングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、そこに生まれたからではなく、これを自らの属する自由で力ある団体とみなし、運営する労を払うに値すると考えるからである。

 ヨーロッパでは時として為政者自身が地域自治の精神の欠如を悔やむことがある。なぜなら、誰もが認めるように、自治の精神こそ秩序と公共の安寧の大きな要素だからである。だが、ヨーロッパの為政者はどうすれば自治の精神を生み出せるかを知らない。地域自治体に力をもたせ、独立を認めることによって、社会の力を分裂させ、国家を無政府状態にさらすのではないかと恐れるのである。ところが、地域自治体から力と独立を奪うならば、そこにはもはや被治者しか認められず、市民はなくなるだろう。

p126

 しかしアメリカの法体系はなによりも個人の利害に訴える。この点にこそ、合衆国の法制を研究する際に絶えず繰り返し見出される大原則がある。

 アメリカの立法者は人間の誠実性にはあまり信をおかない。だが人間は賢明であるとつねにみなす。だから法の執行にあたって、もっとも頼りにするのは人の個人的利害である。

 たしかに、行政の違法によって特定の個人が現実に明らかな損失をこうむったときには、個人の利害が公務員の訴追を促進することは分かる。

 けれども、社会全体に有用ではあっても、個人としては誰もその効用を現実に感じないような法の規定の場合には、進んで告発者となるものは一人もいないであろうと容易に予測される。そうすると、ある種の暗黙の合意によって法が執行することもあるかもしれない。

p153

 地方自治の制度はあらゆる国民の役に立つと思う。だが社会状態が民主的な国民ほど、この制度を本当に必要としている者はないように思われる。

 貴族政にあっては、自由のなかにもある種の秩序を保つことがいつでも期待できる。

 支配層にとって失う者が多いので、秩序は彼らにとって重大な関心の対象である。

 同様に、貴族政の中で人民はゆきすぎた専政から守られているといえる。というのも、専制君主に抵抗する備えのある組織された諸力がそこにはいつもあるからである。

 地方自治の制度を欠く民主制はこのような弊害に対していかなる防壁ももたない。

 小事において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えることができよう。

 一人一人が弱体で、しかもいかなる共通の利害による個人の結合もない国で、どうして暴政に抵抗できよう。

 放縦を嫌い、絶対権力を恐れる者は、地方の自由の着実な発展を同時に望むべきである。