トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(3)

 前回に続いて、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。

 引用した部分は、大衆政治の欠点、自由と専政、地方自治、多数の専政等について。

 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と言ったのは有名だが、トクヴィルを読んで、民主主義は大変な労力を必要とするものだと改めて思った。試行錯誤が大事とはいえ、戦争になってしまっては元も子もないので、民主主義といっても、外交はある程度貴族的な外務官僚に任せておくのも大事ではないかと思った。北朝鮮問題で国民感情が揺れていて、タカ派の安倍政権が発足した現在は、なおさらである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(下)(岩波文庫)から。

第5章 アメリカの民主政治について

p53-54

 民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。

 つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界を成しているのである。

(中略)

 民衆はいつも瞬時に判断しなければならず、もっとも人目を引く対象に惹かれざるを得ない。このため、あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。

p56

 民主政治の自然の本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。

p107-108

 すなわち、民主主義の政府が他の政府に比べて決定的に劣ると思われる点は、社会の対外的利害の処理である。民主政治にあっても、経験を積み、習俗が落ち着き、そして教育が広まれば、ほとんどどんな場合にも、良識と呼ばれる日常の実際的知識、生活上の小さな出来事を処理するあの知恵はいずれ形成されるものである。社会の平常の営みには良識で十分である。そして教育が行き渡った国民においては、民主的自由の内政への導入が産む利益は民主主義の政府の誤りがもたらすかもしれない害悪より大きい。だが国家間の関係はつねにそれでは済まない。

 外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要ではなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。

第6章 アメリカ社会が民主政治から引き出す真の利益は何か

p127-128 

 自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない。専政はこの反対である。往々にしてそれは多年の苦しみを癒すものとして登場する。権利を支え、抑圧されたものを助け、秩序の礎をおく。人民は専政が産み出す一時の繁栄に眠り込み、目を覚ましたときには悲惨な境涯におかれている。自由は逆に、激動の中に生まれるのを常とし、国を分裂させて容易に根づかない。時を経て古くなったとき初めて、その恵みに気づくのである。

p134

 ある種の国では、法律が参政権を与えても、住民が嫌々ながらにしかこれを受け取らない。公共の問題に関わるのは時間の無駄のように思って、狭い利己主義に閉じこもり、垣根をめぐらした四囲の濠割りから一歩も出ない。

 これに対して、アメリカ人が万一、自分自身の仕事以外に没頭するものがないという事態におかれたならば、その瞬間から彼の生命の半ばは奪われたも同然だろう。

p134-135

 疑いもなく、人民による公共の問題の処理はしばしばきわめて拙劣である。だが公共の問題に関わることで、人民の思考範囲は間違いなく拡がり、精神は確実に日常の経験の外に出る。庶民の一員にすぎなくとも社会の統治を任されれば、自分にある種の誇りをいだく。権力の地位にあるとなると、学識に秀でた人々が彼に助力を申し出る。彼の支持を得ようと接触してくる者がひっきりなしにあり、さまざまなやり方で人をだましにかかる連中を相手にしているうちに、利口になるのである。

第7章 合衆国における多数の全能とその帰結について

p150

 そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保証がほとんどない点である。

 合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利を持ったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。

p153

 それに国王のもつ力は物理的な力にすぎず、臣民の行為を規制しても、その意志に働きかけることはできない。ところが多数者には物理的かつ精神的な力があり、これが国民の行為と同様、意志にも働きかけ、行動を妨げるだけでなく、行動の意欲を奪ってしまうのである。

 総じてアメリカほど、精神の独立と真の討論の自由がない国を私は知らない。