リップマンの『世論』(1)

 リップマンの『世論』は「ステレオタイプ」という言葉で有名な政治学の古典だが、私は以前から知っていたものの、読もうとは思わなかった。先日、『世論』ぐらいは読んでおきたいと思うことがあり、それを機会に、読んでみることにした。

 岩波文庫で上下2冊に分かれていて、読みにくいところはないが、長いので、面白いところも多い反面、退屈なところも多く、最後まで読むのに少し時間がかかった。

 古典の書評は私にはできないので、面白いと思った箇所を何回かに分けて抜粋してみたい。

 1回目の今回は、リップマンの紹介から入りたい。上巻の解説にリップマンの略歴が書かれているので、以下にその部分を要約してみる。

 ウォルタ・リップマン(Walter Lippmann 1889-1974)はアメリカのジャーナリスト。

 ハーバード大学を卒業後、市政腐敗を暴露する雑誌『エヴリボディースマガジン』の編集助手となる。

 1912年、市政改革の希望に燃えて、ニューヨーク州スケネクタディ市の新市長で社会主義者のG・ランの補佐になったが、自分が実際政治には全く向いていないことに気づき、4ヶ月で辞職する。23歳。リップマンは社会主義者社会主義について何も知らないことを知って深い幻滅を味わったという。(社会主義者社会主義について何も知らないことについては、『世論』でも取り上げられている。)

 1917年4月、アメリカが第一次世界大戦に参戦する。同年10月、28歳のリップマンは情報将校として対独戦の心理作戦に従事するためにフランスに渡る。さらに、和平に関する「十四ヵ条」原案作成の秘密グループに加わり、十四ヵ条のうち、八ヵ条はリップマンが執筆し、更に、アメリカ政府の公式見解も彼が起草した。しかし、和平工作は実らず、和平工作が完了する前に官職を辞して、雑誌スタッフに戻る。

 1919年、ヴェルサイユ条約の失敗について、2つの小論文を雑誌に発表。30歳。

 1922年、『世論』を発表。同年、民主党系『ニューヨーク・ワールド』紙の論説委員に迎えられる。33歳。

 1931年、同紙が廃刊すると、共和党系『ヘラルド・トリビューン』紙のコラムニストになる。42歳。民主党系から共和党系の新聞に移ったことに、当初、彼が思想的に変節したとみる人が少なくなかったが、次第にその疑念は影を潜め、国際的な影響力を及ぼすようになった。

 1963年、『ヘラルド・トリビューン』紙から、『ワシントン・ポスト』紙と『ニューズ・ウィーク』誌に移る。74歳。

 1965年頃から、ベトナム戦争に反対するリップマンとジョンソン大統領の間で、「リップマン戦争」と呼ばれる抗争が始まり、1967年5月、リップマンはコラムの執筆を断念し、ワシントンからニューヨークに住居を戻す。78歳。

 

 ウィルソン大統領の十四ヵ条の一部を執筆していたことを知って驚いたが、それがわずか28歳のときだった。さらに、後生まで残る名著『世論』を書いたのが、なんと33歳。すごい人は若くから活躍するのだなと思ったが、リップマンの本当にすごいところは若くから活躍したことではなく、80歳近くまで批判精神を変えずに、発言し続けたことだろう。リップマンが80歳近くまで、ホワイトハウスの圧力にもかかわらず、ベトナム戦争に反対し続けたことを知って、ジャーナリストのかがみをみる思いがした。体は年老いても、内面は「十四ヵ条」を執筆した頃と変わらなかったのではないかと思った。

 次回は、十四ヵ条の平和原則について取り上げたい。