リップマンの『世論』(2)

 第一次世界大戦中の1917年11月、ロシア革命で成立したボルシェヴィキ政権は「平和に関する布告」で帝政ロシアの秘密外交文書を公表した。ボルシェヴィキ政権は、連合国に無併合・無賠償・民族自決の諸原則にもとづく講和を呼びかけたが拒否されたため、1918年3月、ブレスト=リトヴスクで単独講和条約を締結する。
p33(下巻)  大方の疑問は、アルザス=ロレーヌやダルマチアはイギリス人の生命にして何千人分の値打ちがあるのか、ポーランドメソポタミアはフランス人の生命にして何千人分の値打ちがあるのか、というかたちで問われた。アメリカでもこのような疑問はまったく出ていないわけではなかった。連合国側による戦争の大目的全体が、ブレスト=リトヴスク会議への参加を拒否したことによって守勢にまわってしまっていた。
 1918年1月、アメリカのウィルソン大統領は、ボルシェヴィキ政権の講和の呼びかけに対抗して、秘密外交の廃止・海洋の自由・軍備縮小・民族自決国際連盟の設立などを含む十四ヵ条の平和原則を発表する。
p34  これ(筆者注:十四ヵ条のこと)が箇条書きされたのは正確を期すための工作であるとともに、ひと目で事務的な文書であるという印象を生み出す方策であった。「戦争の目的」ではなく「講和条件」を声明するという発想は、ブレスト=リトヴスク会議にまさしく該当するような代替をはっきりと打ち出す必要から生じたものであった。これらの条件は、ロシアとドイツの会議という大舞台に代わる全世界規模の公的討論というはるかに壮大なスペクタクルを提供することによって、一般の注意を奪還しようと図ったのである。 p39  「十四ヵ条」が外見上は満場一致で熱心に迎えられたにせよ、それが一つの基本方針に対する満場の同意をあらわしていると思うのは誤りというものだろう。誰もがこの「十四ヵ条」の中に自分の気に入るものを何か見つけて、この面を、あるいはあの細部を、と力説した。しかし、思い切って議論に踏み切るものはなかった。文明世界の底に横たわる、さまざまの葛藤でいっぱいにふくらんだウィルソンの言い回しが受け入れられた。そうした語句は、対立するさまざまな観念をあらわしていたのだが、それが呼び起こした感情は共通であった。そのかぎりにおいて、西側の諸国がさらに十か月にわたって耐えなければならなかった絶望的な戦いの日々、人びとを鼓舞する役割を果たしたのだった。
 1919年1月、パリ講和会議が開かれたが、十四ヵ条はイギリスとフランスの抵抗を受けて、国際連盟の設立以外はほとんど受け入れられなかった。1919年6月に調印されたヴェルサイユ条約は、理想よりも戦勝国国益が優先され、民族自決の原則も東ヨーロッパにしか適用されなかった。  十四ヵ条を執筆したリップマンの悔しさが次の文からにじみ出ているように思う。
p41  ヨーロッパ側の起草者たちは、「人類の権利」から「フランスの権利」、「イギリスの権利」、「イタリアの権利」へと、象徴としての言葉の階層を下ってきた。彼らは一切の象徴を用いることを断念したのではなかった。彼らが切り捨てたのは、自分たちの選挙人たちの想像力の中に戦後永続的に根付くはずのないような象徴のみである。彼らは象徴的手法を用いることによってフランスの統一を守ったが、ヨーロッパの統一を守るために危ない橋を渡る気はなかった。フランスという象徴にはすでに深い馴染みがあったが、ヨーロッパという象徴の歴史は浅かった。