人々に歓迎された日本国憲法

 2004年8月に出版された『戦後政治史 新版』の「はじめに」は、石川真澄氏の最後の文章となった。石川氏といえば、『データ戦後政治史』が名前を変えながら版を重ねていて、政治学を勉強した人なら一度は読んでいるのではないか。個人的には、1993年に読んだ岩波ブックレットの『小選挙区制と政治改革―問題点は何か』が印象的だった。

 私は、日本国憲法が米国の押しつけであったかどうかには興味がない。憲法の内容がすべてであって、押しつけであったかどうかは憲法の価値に関係しない。押しつけであったとしても良い内容であれば良い憲法であるし、自主憲法であっても悪い内容であれば悪い憲法であると考える。しかし今回、石川氏への追悼として、最後の文章の一部を紹介したい。

 今から60年ほど前、1945年の日本敗戦の日、私(石川)は旧制中学の1年生であった。したがって戦後60年はほぼ全期間が私の生きてきた時間に重なる。とりわけ最初の10年が12歳から22歳までであったことは個人的に重要であったと思える。

 たとえば日本国憲法である。私たちは学校で英和対訳の副読本を与えられ、まだ中学生なのに英語を主にして憲法を教わった。当時、占領軍に「押しつけ」られたことは新聞やラジオではタブーだったのだろうが、教師は平然と「これはもとが英語だから英語で勉強しましょう」と言ってはばからなかった。それこそが戦後教育の根本欠陥だといきり立とうとする人々にぜひ知ってほしいのだが、当時、日本政府が用意した憲法改正案(松本蒸治・憲法担当相甲、乙案)も世間に知られていて、「押しつけ」の日本国憲法案が民衆にとってどんなに素晴らしいものであるかは教師に教わらずとも分明であったということである。戦後も初期はそういう時代であった。

 1945年10月4日、マッカーサーは東久邇内閣の近衛国務相(日中戦争時の首相)に、憲法改正作業の指導の陣頭に立つことを要請する。(誤解や、通訳の間違いとする説もある)その後、米国で近衛は戦犯なのになぜ憲法を起草するのかという批判が上がり、11月1日、GHQは近衛の仕事について関知しないと声明を出すことになる。

 近衛は天皇の大権を制限して議会の地位を強化する試案を発表する。

 東久邇の次に首相になった幣原首相は、松本蒸治を憲法担当相に任命する。松本は甲案と乙案を作成するが、どちらも近衛案よりもはるかに大日本帝国憲法にとらわれたものだった。

 民間の改憲案としては、日本共産党憲法研究会、高野岩三郎日本自由党などが案を出していて、GHQはこれらのうち憲法研究会案に特に注目していたようだ。

 1946年2月1日、毎日新聞が松本甲案をスクープすると、GHQは自分たちで憲法を作ることを決意する。2月3日、マッカーサーは「マッカーサー・ノート」をGS(民政局)に示し、GSは1週間で「マッカーサー草案」をつくりあげた。「マッカーサー・ノート」は、天皇国家元首の地位にあること、戦争を廃棄すること、封建制度を廃止することの三原則。「マッカーサー草案」は国会を一院制としていたことなどを除けば、日本国憲法の原型である。

 GHQが新憲法制定(法的には改正)を急いだ背景には、GHQの上部にある極東委員会でソ連、オーストラリアなどが天皇制廃止を主張しそうな情勢があった。円滑な占領政策のために天皇制存続を決意していたマッカーサーにとって、GS主導で新憲法を制定するためには急ぐ必要があった。

pp.21-22

 「政治的権能を有しない」無害な象徴の形で残した天皇制とともに、マッカーサー・ノートで最初から示されていた重要な点は「戦争と軍備の放棄」であった。これがだれの発案なのかについて、マッカーサー自身はその後に公表された『回想記』その他の文書、談話などで一貫して、当時の首相・幣原の発案であると主張している。しかし、今日それを信じる者はほとんどいない。多くの証言がマッカーサー自身の考え方であったことを示しているのである。戦争放棄は、当時のマッカーサーの理想主義的な心情を表していると同時に、日本の侵略の思想的支柱であった天皇制を残す以上、日本が再び軍国主義国として復活することを恐れる国々に対して、「軍備なき国家」となったことで安心させなければならないという配慮から出たものであったとみることができる。

 憲法の平和主義は天皇制存続と引き替えのものだった。もし、極東委員会主導の憲法ができていたら、天皇制を廃止して大統領制(もしくはドイツ型象徴大統領制か)になったかもしれないが、日本軍は残っていただろう。もしかすると今頃、石原大統領がイラクに日本軍を派遣して、米軍とともに戦っていたかもしれない。そんな想像をすると、マッカーサーは先見の明があったといえるだろう。

 憲法の平和主義は幣原首相の発案であったと主張する人が増えてきたようだ。誰が発案したか、真相は闇の中なので推測するしかないのだが、芦田均日記には次のような記述がある。この日記によると、平和主義はマッカーサーの発案で、幣原首相は日本の平和主義に世界はついてこないだろうと言ったとある。

憲法論議第二日 二月廿二日

朝の定例閣議の冒頭に於て幣原総理は昨日MacArthurと三時間に亘る会議の内容を披露された。以下総理談の要領を誌す。

(中略)

“又軍に関する規定を全部削除したが、此際日本政府ハ国内の意嚮よりも外国の思惑を考へる可きであつて、若し軍に関する条項を保存するならば、諸外国は何と言ふだらうか。又々日本ハ軍備の復旧を企てると考へるに極つてゐる。

“日本の為めに図るに寧ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ”。

幣原は此時語を挿んでleadershipと云ハれるが、恐らく誰もfollowerとならいだらうと云つた。

MacArthurは、“followersが無くても日本は失ふ処ハない。之を支持しないのは、しない者が悪いのである。”

松本案の如くであれば世界は必ず日本の真意を疑つて其影響ハ頗る寒心すべきものがある。かくては日本の安泰を期すること不可能と思ふ。此際は先づ諸外国のReactionに留意すべきであつて、米図案を認容しなければ日本は絶好のchanceを失ふであらう。”

第一条と戦争抛棄とが要点であるから其他については充分研究の余地ある如き印象を与へられたと総理ハ頗る相手の態度に理解ある意見を述べられた。

 興味深いのは、松本が押しつけ憲法だと守られなくなるのではないかと述べ、芦田が自らつくった大日本帝国憲法でも守られなかったではないかと述べている箇所。

以上の如き説明に対して松本国務相はかなり興奮の面持を以て意見を述べられた。

『Basic formsが果して総理の云ハれる如きものであるとしても之がWhitney等の意見であるかどうか確めたい。然し私見によれば

(1)米国式方式を日本憲法に書き下すことは議会を前にして時間的に不可能であり、正に超人的事業であるから私にハ出来ない。

(2)仮にかかる案を提出すれば衆議院ハ或ハ可決すべきも、貴族院は到底承諾を与へざるべし。

(3)独乙、南米等の前例に見て明かなるが如く外より押つけた憲法ハ所詮遵守せらるべきものに非ず、混乱とFascismの弄ぶところとなるべし。

(中略)

私ハ次のように云つた。

戦争廃棄といひ、国際紛争は武力によらずして仲裁と調停とにより解決せらるべしと云ふ思想ハ既にKellog PactとCovenantとに於て吾政府が受諾した政策であり、決して耳新しいものでハない。敵側は日本が此等の条約を破つたことが今回の戦争原因であつたと云つてゐる。

又旧来の欽定憲法と雖満洲事変以来常に蹂躙されて来た。欽定憲法なるが故に守られると考へることハ誤である。

 日本国憲法GHQによる押しつけ憲法だったとしても、GHQ憲法研究会案に注目していたことを考えれば、日本の民意もある程度考慮されていたといえないだろうか。重要なことは、石川氏がいうように、当時の民衆は新憲法を歓迎していた。

 新憲法制定から50年以上たち、憲法改正がとりざたされるが、私は憲法を変えるべきではないと思う。不都合になった部分は憲法解釈や法律の制定でカバーすべきだ。自衛隊による海外軍事貢献も場合によってはありだと思うが、それは憲法を変えなくてもできる範囲にとどめるべきだろう。

参考

芦田均「芦田均日記」(1945年~1946年の憲法改正関連部分)(日本国憲法の誕生・国立国会図書館)

著書(補筆):石川真澄『戦後政治史』(YamaguchiJiro.com)