スーダン・ダルフール危機と中国

 スーダンダルフールで世界最悪の危機が起きていることはマスコミがあまり報道しなかったが、そのことを問題視してダルフール問題を取り上げるブログがいくつか現れた。その中でも特に熱心だったのが、スーダン・ダルフール危機情報Wikiを立ち上げた極東ブログfinalventさんで、私は頭が下がる思いでその推移を見ていた。そのfinalventさんがはてなダイアリーfinalventの日記で、毎日新聞の10月14日付「記者の目」を「醜い論説」と書いたことから始まったのが以下の議論。 毎日記者VSブロガー、険悪ムードから相互理解へ(ネットは新聞を殺すのかblog)  まず、個人のブログで真摯にコメントした毎日記者には敬意を表したい。新聞記者とブロガーがブログ(正確には「はてなダイアリー」)で議論するという、ジャーナリズムにとって画期的な出来事だったが、ここでは別の角度から注目してみる。  第一に、重要なことが新聞の紙面の都合で書ききれていなかったこと。「記者の目」は毎日新聞の看板コラムであるが、少しスペースが狭い。これは「記者の目」に限ったことではない。毎日新聞のページ数自体が少なく、さらに読みやすいレイアウトにしていることが、ただでさえ少ない各記事の字数をさらに少なくしているような気がした。(以下、引用はすべて「finalventの日記」のコメントより)
今回のダルフールの取材に当たり、当然のことながら、私はこのルワンダのケースを念頭に置きながら仕事をしています。これは極めて暫定的な仮説ですが、今の段階では、ダルフールの事態はルワンダの場合とは事態悪化のメカニズムが違うという感じを持っています。確かに現在のスーダンのバシル政権は極めて抑圧的で、強烈な「アラブ化政策」を進めており、非アラブ系国民の組織的抹殺を行う土壌は十分に存在しています。  ただ、私が着目したのは、ダルフール地方では混血が極度に進んでいるうえに、現地では、襲撃対象とされた村が、虐殺発生当初の段階では極めて注意深く選別されていたという事実でした。  現地に入った私は無意識のうちにルワンダのケースとの比較を試みたのですが、最初の段階で襲撃され住民が殺害された村は、①反政府勢力の幹部が輩出されている村②多くの住民が反政府勢力に加わった村③反政府勢力にロジスティックを供給している村・・・に集中しており、こうしたことと無縁であった村には、いわゆる「黒人」の村であっても無傷の村が多いことが衝撃的でした。そこで私は、先ほども申し上げた通り極めて暫定的な仮説ですが、一連の残虐行為の発生過程について、①政府軍が反政府勢力の弱体化を狙った→②民兵の動員→③伝統的な民族対立の悪用→④政府軍も民兵を統制できなくなり、民兵の行動が治安秩序全般を破壊する→⑤虐殺、残虐行為の無軌道な拡大・・・という構図を描いてみました。つまり、無実の民間人が多数殺害されているという点ではルワンダ大虐殺と同じですが、事態が悪化するメカニズムにおいて両者には違いがあるのでないかという考え方です。ルワンダが「当初からの組織的殲滅」型であるのに対し、ダルフールのケースは、最初はあくまでも「反政府勢力の弱体化」に重点が置かれ、その後、現地に存在していた「民族」間の伝統的紛争、民兵による無軌道な暴力、秩序全体の液状化、が進行したのではないかという仮説です。
 上に挙げたのは、ダルフール問題はジェノサイドかという問いに毎日記者が答えたものだが、とても重要で貴重な記述だということがすぐにわかるかと思う。本来なら、毎日新聞の紙面に載せるべきものだろう。「finalventの日記」の読者がいかに政治的意識の高い人々だとしても、これは桁違いの読者を抱えているマスコミに載せるべきものだ。  しかし、ダルフール問題がジェノサイドかどうかに関心がある読者は少ないかもしれない。高校野球取材に動員される記者の数が、世界史に残る虐殺事件を取材する記者の何十倍にも達するような新聞では、その読者も言わずもがなとなりかねないからである。
 もう一つは、このダルフール問題への取り組みの遅さは、毎日新聞に限らず日本のすべてのメディアに言えることですが、あまりに貧弱な国際報道体制の象徴だと思います。現在、毎日の記者で海外特派員は世界にたった36人、私についていえば1人でアフリカ48カ国をカバーしています。こうやっている間にも、どこか別の地域で何かが起きている可能性があり、現実には迅速なカバーはほとんどできないとい実態があります。  ご承知の通り、日本の新聞はクオリティーペパーを標榜するにはあまりにチグハグな構造を持っています。世界のニュースから販売店の要請に応えた町内会の行事まで、全部を紙面に押し込めている幕の内弁当のようなものが日本の新聞です。  こうした構造の中で何が起きているかというと、ニュースの第一報をロイター通信かAP通信に頼り、その次にCNNが騒ぎ出せば「国際ニュース」として初めて取材に取り掛かるという現象が日常化しています。あるいは、仮に現場の記者が早めに取材に取り掛かり、外信部の中でコトの重要性に関する一定の認識を得つつあったとして、それが新聞社全体の中で一定の面積を割いたニュースとして扱われにくいという状況があります。この文章を会社の偉い人々が見たら怒るかもしれませんが(笑)、端的に言って日本の新聞社では、自ら「これは重大なニュースだ」と判断できる欧米のクオリティーペーパーのような地域専門家が計画的に育成されてもいません。紙面をご覧になれば分かるとおり、外信部の記者に与えられたページなど高校野球の記事以下のスペースであり、毎春、毎夏の高校野球取材に動員される記者の数(私も若いころやらされました)は、世界史に残る虐殺事件を取材する記者の何十倍にも達するわけです。
 日本の新聞は欧米と違って高級紙と大衆紙に分かれていない。すべてが高級紙もどきである。それが日本の新聞の良さでもあり、欠点でもあったのだが、インターネットとブログの出現によって、来るべきインターネット新聞は欧米型高級紙のようなものになるのではないかと、finalventさんと毎日記者の議論を読んでいて思った。  第二に、二人の論争が起こった原因に中国観があった。 スーダン虐殺は人道優先で。石油利権の話はやめとけ(極東ブログ) スーダンへの制裁措置めぐる安保理決議、中国は棄権(人民網=人民日報)  スーダンの石油に利権のある中国は、スーダンに対する制裁を含む国連安保理決議に棄権した。棄権したのは、中国、ロシア、パキスタンアルジェリアの4カ国。  中国への配慮から、毎日新聞ダルフール問題を取り上げてこなかったのではないかとの問いに対する、毎日記者の回答。
実に膨大な読者の方々、さらには私の女房の親戚からですら「××新聞は親中派なので、この記事を見送ったのか」とか「△△新聞はイデオロギー的に◎◎寄りなので、あの報道に熱心なのだ」といった声が寄せられます。だが、率直なところ、現在の日本の国際報道は、そうしたある種の政治的判断(政治的偏向)以前の問題だというのが実情だと感じています。他の新聞社、または毎日新聞社のほかの部署がどうかは分かりませんが、外信部で私が知りうる限り、私はどこかの国への政治的配慮から記事を控えたこともなく、また控えるよう求められたこともありません。ある意味で日本のジャーナリズムの国際報道の水準の低さを告白する恥ずかしい話ではありますが、問題の所在は政治的判断以前のもっと深刻な問題、すなわち一体、日本の新聞社は今のような構造でよいのかというところにあるように思います。
 ここでは日本のジャーナリズムについてではなく、政治的偏向(イデオロギー的な先入観)について考える。  中国の逆を言えば、ダルフール問題はジェノサイドと言っている米国は、ダルフール問題がジェノサイドだとするとスーダンに介入できて、中国が押さえているスーダンの石油を押さえることができるため、米国に好都合といえる。このような見方をfinalventさんはイデオロギー的な先入観があると言って厳しく批判してきたわけだが、政治的に見ればどのようにもとれてしまうところに、人道問題も政治の道具になってしまう国際政治の冷酷さがある。  これを克服するには、まずこの毎日記者のように、ジャーナリストが現場に足を運び、ジャーナリスティックに物事を見ることから始めるしかない。読者としては、反米、反中国といったイデオロギー的な先入観から自由でなければならない。  先日、本宮ひろ志氏の漫画「国が燃える」が休載になった事件があった。当ブログにも、私の中国人に対する記述が気に入らないとの荒らしが来た。日本の庶民レベルでの反中国感情は高まるばかりのように感じられる。  確かに、最近の中国人凶悪犯罪、反日ブーイング事件、江沢民反日教育は日本の反中国感情を煽るに十分なものがある。さらに、中国が共産主義国家であることが、日本から見てわかりにくいものとなり、対中国観にバイアスをかける結果になっている。中国のチベット侵略や非民主的な共産党一党独裁は批判されてしかるべきだが、すぐに解決するのは至難の業だ。日本としては、批判すべきは批判しながら、ゆっくりと辛抱強くつきあうしかない。  過去の歴史問題において、日本が反省するべきところは反省し、現在の問題において、日本が中国を批判するべきところはきちんと批判する。過去と現在をはっきり分けて考える必要がある。  さらに、魯迅周恩来が日本に留学していたという、戦前の日中友好についても知っておくべきだろう。 貝となり、交わりを避け、貝殻と化す危うさ・・中国留学生の受入れを躊躇うべきではない(blog::TIAO)  今回、中国が国連安保理決議を棄権したのは、ダルフールに対する国際世論があまりにも無関心なので、棄権であればそれほど国際世論の批判を受けることはないだろうと綿密に計算した結果だろう。今後、国際世論が高まれば、中国も棄権という行動を取れなくなるのではないか。ダルフール問題において、スーダン政府に対するのと同様に、中国政府に対しても、静かに圧力をかけ続ける必要がある。