『ブレア時代のイギリス』−イギリスの労働党と日本の民主党

 山口二郎著『ブレア時代のイギリス』(岩波新書)は、日本の民主党を考える際に参考になるイギリス労働党について書かれた本であるので、民主党を考える際にはぜひ読んでおきたい本といえる。

 

 ブレアは「大統領型首相」、「選ばれた独裁者(elected dictator)」と呼ばれる。そのように強い力を持つようになった理由として、山口氏は、第三章「民主主義の危機と好機」で次の要因が挙げている。

1 政権奪取にいたる労働党の歴史的経緯という要因。

  選挙に勝てるリーダーの下でまとまる必要があった。

2 小選挙区制と議院内閣制という制度的要因。

 小選挙区制で当選するためには、党の公認を得ることが不可欠である。議院内閣制で与党が政権を支えるためには、政府が提出する法案や予算の議会審議において与党はまとまってこれに賛成する必要があるため、党議拘束がかかることになる。

3 ブレアの人格という要因。

  ブレアはカリスマ性を持ち、弁舌能力も抜群である。

 1と3については、日本の民主党の場合、前原氏は若さの点でブレアと共通しているが、カリスマ性と弁舌能力という点で疑問符が残る。新自由主義を自明のものと考え、親米である点は共通だが、イギリス国民はその点を評価してブレアを支持しているわけではない。

 2については、先の衆院選小泉首相郵政民営化に反対する候補者を自民党の公認から外して、自民党内のリーダーシップを強化したことなど、日本でもイギリスのように議院内閣制本来の強力なリーダーシップを活用し始めていることは周知のとおりである。

 山口氏は、p69で「政治の人格化」を紹介している。

 その内容は、従来の政党や組織を政治行動の単位とする代表民主政治に対する不満が高まると、リーダーは国民に直接語りかけて、国民の支持を獲得しようとする。リーダー個人の魅力やイメージによって国民の支持を動員し、選挙での勝利、重要政策の推進を図る政治の手法の拡大を、「政治の人格化」と呼ぶ(この言葉は、イタリアの政治学者、マウロ・カリーゼが概念化した)。この傾向が進めば、国民が政策の中身をじっくり考えて判断するのではなく、特定の政治家の個性で政治の動きを正当化してしまう。イギリスは、政治の人格化が最も早く現れた事例であった。

 人格化された政治においては「直接性」が鍵となるが、ここで注意しておくべきことは、人格化された政治における直接性は、あくまで擬似的なものでしかないという点である。

 テレビという媒介(メディア)を通して、マーケティングの手法やスピンドクター(メディア政治における演出家、振付師)を駆使し、政治家が断片的な言葉「サウンドバイト」を吐いていくさまは、イギリスの首相・ブレア氏だけでなく、日本の首相・小泉氏の日常でもある。

 山口氏は、政治の人格化の問題点について、マックス・ウェーバーの「カリスマ的支配」の概念を用いながら、次のように指摘している。

p76

 だが、政治の人格化が進めば、権力の正当性根拠はカリスマに移る。そうなると、権力は属人的なもの、さらに言えば権力者の私物となりかねない。また、従来の法的責任追及や統制の仕組みも機能しなくなる。権力者が暴走したときに議会でこれを追及しても、人格化されたリーダーはこれをかわして、「リーダーとしての決断」という言い方で自らの行動を正当化しようとするであろう。国民による法的なコントロールや責任追及から権力者が自由になるということは、民主主義の空洞化、さらには独裁の誕生に他ならない。

p77

 しかし、問題はさらに残る。政治の人格化を引き起こす能力がよいリーダーの条件と考えるという発想が一般市民に広がると、人々は常に「他にリーダーとなれる人がいない」という物足りなさに苛まれることになる。今のリーダーに変わるべき人材がいないという雰囲気の中では、リーダーが政策上の失敗を犯しても、それについてけじめをつける、責任を追及するということが曖昧にされがちとなる。こうした現象は、ブレアのみならず、イタリアのベルルスコーニ、日本の小泉などに共通しているように思える。

 ブレアが無理をしてまで、ブッシュの戦争に荷担した理由として、三つの解釈がある。私には三つ目の解釈が興味深かったので、ここで紹介したい。

p106

 第三の解釈は、英米の軍事的一体化の中では、イギリスにとってアメリカの戦争に協力する以外の選択肢はありえないという説明である。これは、先に紹介した半澤朝彦氏が強調している。軍事的一体化という点では、日米の間でも進んではいるが、日本の場合、軍事力の行使が国としての選択肢の中には入っていない。日本は、表向きあくまで「人道支援」という名目で自衛隊を派遣している。それに対して、イギリスは、アメリカよりもはるかに小さい規模ではあるが、軍事力の行使によって国際社会における影響力を維持するという行動をこれまでもしばしば取ってきた。この外交路線を維持するならば、実際に使える軍を保持することが必要になる。だが、現状では、軍を実際に使えるようにするためには、情報、技術の両面でアメリカの援助が不可欠である。軍事力の行使という選択肢を維持するためには、米軍とともに行動するしかないというのが、第三の解釈である。アメリカに逆らうと、以後、軍事力の行使はできなるという指摘は、現実を言い当てているように思える。

 日本がアメリカとの軍事的一体化を進めていくと、イギリスのように今後アメリカの意に反する行動がとれなくなる可能性が高い。日本単独の暴走、要は戦前の日本軍国主義の復活は防げるかもしれないが、アメリカがブッシュ政権のように軍事的暴走を始めた場合、日本も否応なくその渦の中に巻き込まれることを意味する。日本のタカ派はそこまで考えているのだろうか。それとも日本独自の行動は可能と考えて、日米軍事的一体化を進めているのか。

 どちらにしろ、日米軍事的一体化の行き着く先には、悪夢のシナリオが待っていそうだ。

 この本には、他にも「第三の道」の三つの評価や、ブレア政権で地方分権が強力に推進されたことなど、日本も参考になることがたくさん紹介されている。

 イギリスのブレア政権が問題を抱えていて、「第三の道」が新自由主義を覆い隠す偽装のスローガンだとしても、日本の小泉政権に比べればはるかにまともな政治をしていることもわかる。

 ブレア首相は大量破壊兵器で嘘をついて大問題になったが、小泉首相は初めから論理的でない政治を行っているので、問題が発生するわけがないのである。

p190

 しかし、小泉とブレアには大きな違いもある。ブレアが演説を大切にし、論理によって人を説得しようとしたのに対し、小泉は論理を無視し、単純化と問題のすり替えによって大衆の支持を集めた点である。イラク戦争のとき、ブレアは戦争の正当性を証明するために、大量破壊兵器という壮大な虚構を作り出し、その結果自らを窮地に追い込んだ。これに対して、小泉は、国会答弁でおよそ論理というものを軽蔑した言動を繰り返した。日本以外でこのような政治家の存在が許されるとは思えない。

 小泉首相の「靖国参拝は心の問題」「靖国参拝を批判しているのは中国と韓国だけ」といった発言に至っては、論理破綻もいいところだが、それを指摘しないマスコミも、遂に大政翼賛会入りしてしまったかと思うほどヘタレであり、ぶざまな腰砕けである。

 私は先の衆院選後、日本は新しいファシズムの時代に入ったのではないかと思っているのだが、このようなマスコミ報道にもファシズムの影が現れているかもしれない。

 日本の自民党は今後、イギリス保守党の「恐怖の政治」(p151-153)に近い手法をとるのだろう。北朝鮮や中国の軍事力、国内の犯罪等の身体的な恐怖感をあおって、軍事力増強と警察力強化によって、自民党の支持につなげるという手法である。

参考ブログ等

靖国問題:小泉総理のいい加減な憲法理解、再び(私的スクラップ帳)

極東の対話欠如--ルモンド記事(ね式(世界の読み方)ブログ)

06年1月:驕る小泉は久しからず?(yamaguchijiro.com)

参院代表質問 靖国参拝で中韓の対応に改めて疑念 首相(毎日新聞・ヤフー)

東南アジアでも反発と懸念 小泉首相の靖国参拝(共同通信・ヤフー)

麻生外相「天皇の靖国参拝実現を」(中国新聞)

カリスマ(wikipedia)