ハンナ・アーレントによる労働観の再考(2)

 「ハンナ・アーレントによる労働観の再考(1)」の続きです。

 前回はマルクスの労働観までをみてきましたが、今回は本題の、アーレントの労働観が登場します。アーレントは、「労働」「仕事」「活動」の3つの活動力を独自に概念化します。

 以下、『ハンナ・アーレント入門』杉浦敏子(藤原書店)より引用。

二 アーレントの「労働」「仕事」「活動」

(1)アーレントの古代労働観の分析

p143-144

 「労働」とは、人間の「活動力」(activity)の中で最も価値の低いものであったと彼女は言う。その理由は次の通りである。

 まず第一に「労働」とは、生命の必然に拘束され、無限に同じ事を繰り返す行為だからである。

p145ー146

 第二に「労働」という行為が苦痛に満ちた骨折り仕事であり、人々の嫌悪の対象になっていたということである。「昨日の荒廃を毎日新しく修理するのに必要な忍耐というものは、勇気ではなく、またこの労働が苦痛に満ちているのは、それが危険であるからではなく、むしろ、それが、情け容赦なく、反復しなければならないものだからである」とアーレントは言っている。

 第三に「労働」の持つ「無世界性」である。「無世界性の経験−というよりはむしろ苦痛の中に現れる世界喪失−に厳密に対応している唯一の「活動力」が「労働」なのである。この場合、人間の肉体は、その活動力にもかかわらず、やはり人間自身に投げ返され、ただ自分が生きることにのみ専念し、自らの肉体が機能する循環運動を越えたり、そこから解放されたりすることなく、自然との新陳代謝に閉じ込められたままである。」つまり、労働する動物は自分の肉体の私事の中に閉じこめられ、だれとも共有できるものはなく、だれにも完全に伝達できない欲求を実現しようともがき、世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されている、という意味で無世界的に生きていると言うことができよう。

 この点と関連して第四に、「労働」は、他者の存在を必要としない。「労働」において、人間は世界とも他人とも共生せず、ただ自分の肉体とともにあって、自分を生かし続けるための必要と向かい合っているだけである。「労働する動物」としての人間も他人との共同の中で生きてはいるが、この共同性は同一の個体の集合を意味しており、人間はこの場合、単なる生きた有機体に過ぎないと彼女は言う。そして分業は、二人の人間がその労働力を重ね合わせることができ、二人があたかも一人であるかのように振る舞うという「一者性」(oneness)を表しているが、この「一者性」は「協業」(cooperation)の逆である。この観点から見れば、個々の構成員はすべて同一で、交換可能になるのである。逆に他者の存在を絶対的に必要とするのが「活動」であり、ここにもアーレントの「複数性」擁護の考えが見てとれる。

 第五に、「労働」は、私的領域に閉じこめられている。「労働」は、生命の必要を満たす行為であるので、各個人に自分の肉体的必要に集中することを強制し、共通世界や複数の個人の関係性に目を向けさせようとはしない。したがって「労働する動物」としての人間が近代世界において公的領域を占拠しているかぎり、真の公的世界は成立し得ないと論ずるのである。

p147

 つまり、「労働」が「目的のない規則性」に従属しており、必然の過程であるのに対し、「仕事」は「独立した実体として世界にとどまりうるほどの」耐久性を備えたものをつくり出し、死すべき運命を持った人間に、その死を越えた、不死の世界をつくり出し、自らが生きた痕跡を世界に残すのである。

(H.アーレント『人間の条件』参照)

(2)アーレントの近代労働観批判

(3)アーレントの「活動」の概念

p149-150

 「活動」(action)は、自然や事物に孤立的に対峙してなされるものではなく、複数の人との関係性において成り立つ自発的行為の様式である。それは常に集合的行為であり、他者の存在を絶対の条件としており、必ず「言論」を伴う。そしてアーレントによれば「活動」と「言論」は外に向かって開かれている。

p150-152

 「活動」とは、第一に人間の「唯一性」(uniqueness)の発露である。だが同時に人間はその人にしかないこの唯一性をもとに、他の人々との「共通性」(commonness)を備えている。この背反した性格が、仲間の中で自分の個性をきわだたせようとする欲求である「卓越」を生み出す。

 第二に「活動」は、予期せぬことを行う人間の能力と結びついている。人々は「活動」において何か新しいことをなすことができ、逆に何か新しいことを始める能力は人々を「活動」へと駆り立てる。人間自身が「始まり」となる「活動」においては、全く予期しなかったことがなされる。この「始める」という能力は、個々の人間の何かをなそうとする意志、それを実行に移す勇気に基づいている。

 第三に「活動」は「言論」と不可分の関係にある。たとえ「活動」においてユニークさが問題になるとしても、それがあくまで共同行為であることに変わりはない。「活動」が絶対の前提とするのは他者の存在であり、「活動」において自分の意図を伝えたり、考えていることを相互に伝達しあう媒体となるのが「言論」である。「言論を伴わない活動は、その顕示的性格を失うだけではない。同じように、それはいわばその主語を失う」のである。

 第四に「言論」は、公的性格を持つ。この場合、「公的」とはあらゆる人に見られ聞かれうるという「活動」の公開性と、それが共通世界に関わっていることを意味している。この共通世界に対してはすべての人間が責任を負っているのだが、公的な企てに勇気が必要なのは、それには生命だけではなく、世界が賭けられているからである。したがって、私的な事柄だけに関心を持つ人は世界に対する責任を放棄しているとも言えるのである。つまりアーレントの言う「活動」は「公的領域における行動」と言い換えても良いだろう。単なる生物学的、肉体的プロセスや経済的な生産力の問題ではなく、公的で政治的な生活の重要性をアーレントは強調するのである。

p152-153

 アーレントは「私的」「公的」領域とは別に「社会的」領域の出現を次のように説明する。

「生活の私的領分と公的領分の区別は、家事の領域と政治の領域とに対応しており、この両者は、少なくとも古代の都市国家が勃興して以来、別個の独立した実体として存在してきた。だが、社会的領域という、私的でも公的でもない領域の出現は、厳密に言うと、比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時を同じくし、その政治形態は国民国家のうちに見られる。」

 つまり、複数性を許容し、それを基盤とする「言論」と「活動」の空間であるはずの「公的」領域が、「労働」という生命の必然性に制約された画一的行動様式を機軸とする「社会的」領域によって浸食されていくのである。そしてこの「社会」の勃興によって、かつては家という私的領域に閉ざされていた経済的諸問題が全共同体の関心事になる。ここに「労働」が至上の価値を与えられる根拠がある。この中では、目的合理性、道具的合理性が優位性を持ち、「活動」を通じてつくり上げていく人々の共通世界が、没落を余儀なくされるのである。

 以上、労働至上主義が近代になってつくられてきたものであることを検証してきたが、現代においては、様々な人間的諸「活動」(特に公共的な言説的実践)さえもが「労働」化している。われわれのこれからの課題は、アーレントの言う「自由」の領域を拡大し、「必然性」の領域を縮小していくことである。生活のすべてを必然の「労働」が満たすとき、公的空間における言説による共同の事物に関する討議は成立しない。「労働」の拘束から解放されてはじめて、「言葉」と「行為」によって、自分および自分と人々の中に新しい始まりをつくり出すことが可能になるだろう。

(H.アーレント『人間の条件』参照)

(以上、引用終わり)

 「活動」の制度化として、アーレントは評議会制を主張しているが、具体性に欠けるとして批判がある。これについては、また別の機会に取り上げたい。

 アーレントに興味を持った方は、最初は原典に当たるよりも、入門書を読むことをおすすめしたい。原典は、ちくま学芸文庫から『人間の条件』『革命について』『暗い時代の人々』の3冊が出ているなど手に入りやすいが、内容は哲学的で難解である。今回、第5章の多くの部分を引用させて頂いた、杉浦敏子著『ハンナ・アーレント入門』(藤原書店)はとてもコンパクトにまとめられているし、表紙にアーレントの顔写真が載っている。ハイデガーを虜にさせたルックスはともかくとして、アーレントの生涯を知ることは、著作を理解するうえで必須といえるだろう。

 最後に面白い話を一つ。アーレントが「労働」と「仕事」を区別する観念を得たのは、「台所とタイプライター」だったという。つまり、オムレツをつくるのは「労働」であり、タイプライターで作品を書くのは「仕事」なのであった。

(H.アーレント『人間の条件』ちくま学芸文庫の訳者解説より)