重慶爆撃について

 中国の重慶で行われたサッカーのアジアカップを見ていると、日本は中国と戦っているわけではないのに、中国の観客が日本にブーイングをしてくる。重慶とはいえ、これはやばいと思っていたら、やはり反日ブーイング事件として社会問題となった。日本では、読売の社説に見られるように、江沢民の愛国教育が元凶とする見方が多かった。しかし、橋本元首相小泉首相靖国神社参拝も大きい。神社にお参りに行くなと外国から言われる筋合いはない、と単純に反発して参拝し続けるだけであれば、日中間はいつまでたってもギクシャクしたままだろう。しかし、その後心配されていた北京の決勝戦は日本が勝って、大きな騒ぎにならなくて良かった。  私は初め、重慶だから特に反日感情が強いのではないかと思っていたのだが、あまり関係ないようだ。今回の事件はサッカーの試合で起きたことなので、政治的な問題と違って、あまり尾を引かないだろう。 日々是亜洲杯2004 重慶にて「ゴジラ」と出会う(スポーツナビ)
確かに重慶の人は気性が荒いですし、若い人でも(旧日本軍による)重慶爆撃のことは知っています。でも、だからといって、ここが特別に反日感情が強いわけでもないと思いますよ。今年の4月にも、日本のバンドがここでコンサートを開きましたが、何も問題はありませんでした。人と人では、こういう問題は起こらないと思います。でも今回のサッカーの試合は、やはり国と国ですからね。  もっとも、スタジアムで何が起こったかについて、重慶のほとんどの人は知らないと思います。ましてや、日本での反発など知る由もないでしょう。昨日の新聞(『中国青年報』=中国共産主義青年団の機関紙、29日付け)で、重慶市民が日本の国歌にブーイングしたことを非難する記事が載っていましたが、記事の扱いとしてはとても小さいものでした。だからほとんどの人が、何が起こったのか知らないんですよ。  タイとの試合は、私も観戦しました。あのブーイングを聞いたときは、何だか恋人の悪い面を見せられたような心境でしたね。私はやっぱり、重慶が好きですから。でもおかしかったのが、最初に流れたタイ国歌で、ブーイングしようとしていた人がいたことです。スタンドにいたほとんどの人が、実は君が代なんて知らなかったんだと思います――」
 さて、今回のテーマの重慶爆撃であるが、当時重慶は国民政府の臨時首都で、日本軍が激しい空爆を行ったということしか私は知らなかった。今回、インターネットで調べてみたが、重慶爆撃について書かれたページはあまりなく、少しだけあったページのほとんどが前田哲男氏の『戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡』の内容に関するものだった。この本は絶版なので、図書館で探すしかないようだ。この本によると、重慶爆撃は戦史初の戦略爆撃作戦と位置づけられるという。 前田哲男『戦略爆撃の思想』(正林堂テーマ館)
戦史初の戦略爆撃作戦 第一に、日本軍の重慶爆撃は「戦略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空襲作戦であった。ドイツ空軍のゲルニカ攻撃より約1年遅れはしたが、1日限りではなく三年間に218次の攻撃回数を記録した。空襲による直接の死者だけで中国側集計によれば1万1885人にのぼる。ドイツ空軍が英本土に対して「アドラー・ターク(鷲の日)」攻勢を開始し、あの「バトル・オブ・ブリテン」の始まる日までに、重慶は二夏の爆撃を体験し、日本軍飛行士によって市街地は「平らになった」と報告されていた。英空軍によるベルリン爆撃より「五・三、五・四」の方が1年3ヶ月も早い。つまり重慶は世界のどこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市の名を歴史にとどめるのである。  その意味で「重慶爆撃」は、東京空襲に先立つ無差別都市爆撃の先例であり、核弾頭こそ使われなかったものの、思想においてそれはまぎれもなく「広島に先行するシロシマ」の攻撃意志の発現であった。第二次世界大戦の中から生まれてきた「戦略爆撃の思想」が広島・長崎を転回点として核戦略に転移し、航空攻撃から弾道ミサイルによる「経空攻撃」へと飛躍して地球と人類にのしかかっている現実を考えるなら、ゲルニカ重慶―広島への流れは、人類絶滅戦争=みなごろしの思想の原型を形づくったといえる。  加えて重慶から流れ出たもう一つの支流「焼夷弾からナパーム弾」への分野を見ると、東京空襲から朝鮮戦争ベトナム戦争と続き、イラン・イラク戦争湾岸戦争に至るまで、枚挙にいとまない血と炎の濁流を目撃できる。これも「重慶の遺産」と無縁ではないのである。
 なお、重慶爆撃では当時世界最高性能を誇った零戦が使われていた。  1937年から39年にかけて、日本は中国の華中、華南で中国軍に苦戦を強いられていたが、中国軍はアメリカ陸軍航空隊退役将官クレア・L・シェンノートによって立て直されていた。そこで、制空権を確保するために、新型機・零戦が急きょ投入された。  さらに、米国のシェンノートを中国空軍の顧問に招いたのは、蒋介石夫人の宋美齢だった。シェンノートは「飛虎隊(チーム・フライングタイガー)」を打ち建て、シェンノートの支援のもと、宋美齢はごく短期間のうちに空軍内部の指導権を掌握し、後に「中国空軍の母」と呼ばれた。  なんと、宋美齢氏は昨年まで存命していた。2003年10月23日、米ニューヨーク・マンハッタン島の自宅で死去。享年106歳。当時、ニュースでも取り上げられた。  宋美齢孫文を援助した浙江財閥の宋嘉樹の3姉妹の三女。次女の宋慶齢孫文の夫人で、戦後も大陸に残り、59年から75年まで中華人民共和国の国家副主席をつとめた。3姉妹がそれぞれ歩んだ人生は、現代中国の激動の歴史そのものだった。 参考 新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして(blog::TIAO) なぜ重慶で日本人がブーイングを受けるのか(MSugaya Blog) 前田哲男『戦略爆撃の思想』(正林堂テーマ館) 零戦の栄光(LANDING GEAR) 宋美齢氏 伝説の生涯(人民網=人民日報) 宋慶齢(現代中国ライブラリィ)